「津和野をかすめて萩へ行き
仙崎・下関で金子みすずを考えた」
の旅

2003年10月18日;-津和野-萩
         19日;-萩城跡-仙崎-角島-下関-
なんだか追いつまってきた。
来週からは、まる1か月休みなし。
プライベートのバンドも、練習やら本番やらいろいろある予定。
この日程を逃しては、とうぶん何もできそうにない。
さいわいに土曜の半ドンがとれるので、土曜から出かけることにしよう。
2003年10月18日
午までで仕事が終わり、昼食とって急いで帰宅したものの、一週間の疲れはたいしたもので、15時前まで仮眠。
給油と洗車をして、15時20分スタート。

中国道六日市ICから、17時半頃(?)津和野。

道の駅「津和野温泉 なごみの里 みち草」で休憩がてら、お酒とわさびの醤油漬けを買う。
酒は「華泉(かせん) 蔵出し原酒」アルコール分19度以上20度未満。

そこから萩の宿を取るべく電話。最初の宿はツインしか空いてないというので、二つ目へ。
そこは空いているというので、ホテルニュー高大へ。

むつみ村を通過中に日が暮れるが、なんだかいい雰囲気の山道。これから到着する萩の町が、懐かしい町に思われてくる。ずっと昔、祖母の村へ行く道中感じた、懐かしい香り。
1時間ちょっとで到着。

和室。ひとり旅での和室は、じつに珍しく、たぶん、97年の大垣以来ではなかろうか。あ、いや、00年の御霞洞温泉以来か。
部屋は修学旅行で泊まったような部屋。安いから文句を言う気はない。

夜の萩へ出る。アーケード街は、7時ちょっと過ぎだと言うに、何もない。
とりあえず、ぶらぶら。方言を表に裏にその意味が書いてある幟がずっと並んでいる。
今日は何の準備もしてこなかったので、本屋へ行きたかったのだが、本屋もない。
結局ポプラで、漫画と文庫本。
そして結局、宿の前の居酒屋「たにし」で。
どうぞと、小さな座敷に上がらされる。
鮎の背ごし、かしわの唐揚げ、ビール1本、日本酒1合。値段は割高目。
仕切られた隣の団体さんの、言葉も広島とそう変わりなく、これも歴史のつながりかと思う。
が、ひとりぽっちの座敷はさみしい。買ってきた漫画を読みながらの食事。

宿に戻って、大風呂があるというので、入りに行く。
ステンレス製の大風呂。泊まり客が少なそうなのに、お湯を張って、もったいなさそう。
湯がぬるいので、蛇口をひねって盛大にお湯を注ぎ込む。
ちょっとして、若いお兄ちゃんが入ってくる。ひょっとして、この旅館の子息かとも思ったが、話しかけることもなくあがる。

ぽかぽか温まった体で、津和野で買った日本酒で一杯。
日本酒としては度数が高いが、けっこう甘口の酒。わさびの醤油漬けの甘ぴりとけっこう合う。

この夜は、疲れと体調のせいか、ひとり旅で初めて11時前に就寝。睡眠。zzzz

184.5Km走行

10月19日

10時のチェックアウトまで、宿にいた。
けっこう熟睡したが、もっと寝ていたい。

萩見物。昨夜歩いていて、「野山獄」とか案内表示は見たのだが、駐車場を見つけそびれて、萩城跡へ。

「無料」駐車場との看板があったので、停める。土産物屋の駐車場であったので、いちおうお義理で入ってみる。というか、朝食をとろうと思った。

肉うどんをたのむ。
朝から「肉うどん」。これが、意外に!
ちょっと堅めの肉と、とろろ昆布と、かまぼこ二切れと、ネギだけの具なのだが、意外に美味。
うどんも、モチモチ感とシャッキリ感があって、500円は高いか安いか議論の分かれるところだが、眠気も覚めて、満足。

萩城跡は、入場料210円(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋入場料込み)だし、建物は残ってないし、どうしようかと思ったが、なんとなく入ってみた。

これが意外によかった。
静かで、それも音だけでなく雰囲気自体が静かで、海に突き出た場所とは思えない。
萩の花や、桜の紅葉、初秋の雰囲気が漂い、高校生の十数人の団体が自転車で来ていたが、それも場の雰囲気を壊さず、仕事に疲れた体と心に安らぎを。

中高年のカップルも、家族連れもいたが、この雰囲気に引かれるのがよく理解できる。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋を見学。
広い部屋で8畳、長屋と言うだけあって、細長い。屋敷の塀沿いの長屋が残っていて、たぶん、家来たちが住まっていたのだろう。意外につつましく見えるが、板敷きの廊下などなく、全部畳敷きであった。
端にあった中間(ちゅうげん)部屋が、天井もなく、いちばん広々としていた。
全面板敷きで、武士にこき使われ、かといって武士でもないという身分の哀れさより、したたかさを感じた。

長門市に向かう。

萩城本丸跡を望む。
お堀の向こうを「犬の散歩」する夫婦
旅の小動物
ねこ
ぶさいく。
石垣の間に顔を突っ込んでいたので、
顔を撮ろうとチッチと口を鳴らすと、速
攻で振り向いて、すり寄ってきた。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
こういう古い建物が、普通の民家のよ
うにあるのが、萩のよいところ、すごい
ところだろうか。

今回の旅の最初の目的は、国道191号線を最後までたどる、であった。
可部から戸河内まではよく行っていたし、99年には、長門市から戸河内まで191号線をたどったので、長門市から下関までの191号線をたどろうとした。

しかし、99年の時にも気になっていた金子みすずを考えてみたいとも思った。

思ったわけだが、金子みすずの詩を、それほど熱心に読んだわけではないので、とりあえず読まなければならない。
長門市のスーパー・フジの本屋さんに寄って、金子みすずの詩の文庫本を買い、ついでにCD屋さんもあったので、スクーデリアエレクトロとG.ガーシュインのCDも買った。

99年に来た時に見つけていたみすず公園に。
そこで仙崎の海を見ながら詩を読むことにした。

けっこう急な坂を登る。
そこいらに勝手に咲いている花や草、鳴いている虫の声が自然に心にしみるようだ。
読んでいると、親子連れの家族が食事を持って登ってくる。
父親らしい若い男性と軽く会釈して、思わず立ち上がって帰ろうとする。彼らが来なければ、もう少しいたかもしれない。

階段を下っていると、小さな花や蝶に目がとまる。
草むらから飛び上がったバッタのゆくえに目をやると、そこにも、登る時には気づかなかった詩碑があった。
バッタが教えてくれたのだろうか。
みすずの詩を読んだ後には、そうした小さな自然が、独特の光を帯びて感じられる。

みすず公園は眺めがよく、人もいなくて、とてもよい。
と思って駐車したところまで下ってみると、けっこう車が停まっている。来た時は私の一台だったのに。
「みすず公園は、白潟トンネルの工事
中に発生した地すべりの跡地を利用
して、金子みすずのこころを広く紹介
するために整備され、平成6年9月に
完成しました。

題字は金子みすず自筆詩集より編集
したものです。」

との案内板あり(一部表記を変更)
けっこうな斜面だが、歩きやすく、登り
やすい
詩を刻んだ石碑がいくつもあるが、公
園自体は手入れされていないのか、
わざとなのか、野の草花がいっぱいだ
った
斜面に、白い百合がみすずの魂のよ
うに咲いていた。

 金子みすずは、突如時間の向こうから私たちの前に現れたという感がある。
 それは、80年代に彼女の詩と出会ったひとりの人間の尽力のたまものであるのだが。
 金子みすずの詩が彼女の死後60年を経て再び世に現れた時、それは私たちの心を打った。
 私は、心ひかれつつ、もう一方で、その心ひくところの拠って立つところを見極めねばとも思う。

 彼女の詩に触れた人々は、その詩心の汚れなさと、その悲劇的生涯に心奪われていったが、それは反面、彼女の詩を消費するだけにとどまっているという現実につながっている。
 金子みすずがすぐれた詩人であったのかどうか。たとえそうでなくても、こんなにも私たちの心をとらえるのはなぜなのかを、その詩を構成する「言葉」をとおして確かめなければ、彼女の正当な評価にはつながらないであろう。

 20世紀終末から、21世紀初頭にかけて生きる私たちの都合に合わせて、金子みすずの詩があるのではないということを、私は考えていきたい。
 そこには、一人の「ものを見る人間」がいるのである。
 詩人は、自分が見たものを、たまたま言葉によって表す人間だというだけである。私たちは、自分たちの都合によって、他人の言葉を、ここにあったがゆえに、それがさも真実であるかのように用いていいのだろうか。
それが、宗教者や、人権論者に用いられる時、特に悲しい気持ちになる。信仰や、「自分が自分であることの確認(=人権)」こそ、それこそ「自分の言葉」でなされなければならない。
 たんに自分に都合のいい言葉として金子みすずの詩の語彙が用いられる時、私は、「情報の消費」の真の意味を理解する。

 メディアとは「情報記録媒体」であるのならば、メディア自体が古びるということは、「情報」にノイズが混じる度合いが高まるということで、それはたとえば、カセットテープが劣化すること。
 「言語」は、そう考えると、かなり高度なメディアと言えるかもしれない。
 問題は、その「メディア」の再生装置にある。
 パソコン用のデータCDをオーディオCDプレイヤーにかけるようなとんちんかんを、私たちは言語においてしているのではないか。というおそれが私にいつもつきまとう。
 金子みすずの残した「言葉」というメディアを、私たちはどこまで正確に再生できているのだろうか。

 それはともかく、金子みすずが私たちの同時代人として現れたということは、現在のメディアの状況を端的に表している。
 私たちは、すでに死んだ者の声や演奏を、リアルに聴くことができる。
 「死者たちはCDの中で生きている」と言うことができる状況が、すでに確立されている。
 私たちはそれを「バーチャル・リアリティ」と呼んでいる。そしてそう呼ぶことで、私たちの中に位置づけ、位置づけるということは、正当な理解方法であることの証拠として法廷に提出されることである。
そうした状況の中で、金子みすずは私たちの前に現れた。
 そういう意味で、彼女は私たちの同時代人なのである。
 が、それが、正当に彼女を理解する方法なのであるか。
 つまり、私たちは彼女を正確に再生しているのだろうか。

 表現者はつねに、「メディア」の中にしか存在しない。表現を、表現者の履歴の中で理解することは、つねに、表現に対する誤解以外の何ものでもないものを含んでいる。
 履歴の中にいる表現者が表現したものでなく、表現者が表現したものの中にしか、表現者は存在しない。
 これが私のこの論でのスタンスである。?

 金子みすずが生命のはかなさを感じる時、それは食餌行為と結びついている。

お魚

海の魚はかわいそう
お米は人に作られる、
牛は牧場で飼はれてる、
鯉もお池で麩を貰ふ。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
こうして私に食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。

 詩人として世間に立つと言うことは、残酷なことかもしれない。自身の生命のぎりぎりのところで発せられた言葉が、他人の勝手な解釈の中で蕩尽されるのをじっと耐えねばならない。
 この詩を淡々と読めば、ごく普通の食卓の風景の中で、日本的風土の中で生まれ育ったのものたちの多くが感じる「事実」が描かれているだけである。

 しかし、「魚」を「くじら」に置換すれば、グリーンピースの詩になるし、もっと敷衍すればベジタリアンの詩にもなる。
 彼女は、生命の尊厳を詩にしたのだろうか?

はだし

土がくろくて、濡れていて、
はだしの足がきれいだな。

名まえも知らぬねえさんが、
鼻緒はすげてくれたけど。


達磨おくり

白勝った、
白勝った。
揃って手をあげ
「ばんざあい」
赤組の方見て
「ばんざあい」

だまってる
赤組よ、
秋のお昼の
日の光り、
土によごれて、ころがって、
赤いだるまが照られてる。

も一つと
先生が云うので
「ばんざあい。」
すこし小声になりました。

 こういった詩と並べてみると、ここには凝視する視線があることに気づく。
 『お魚』にもどって考えると、彼女が見つめているのは、調理された魚以外の何ものでもない。そして、漁港漁業の町に生まれ育った者にとって、目の前にある(たとえば)塩焼きにされた魚は、さっきまで生きていたものであることは、容易に気づくことであろう。
 そこにこの詩の発想があろう。もちろん、詩人はそういう風に発想するものではないが、発想の過程を冷静にたどれば、そういうものであろう。
 「こうして私に食べられる」という言葉には、箸先で塩焼きの魚の身をほじりながら、さっきまで身を捩らせていた魚と結びつける想像力がある。それは、想像力と言うよりは、幻視力とでも言った方がいいかもしれない。
 私たちが自分の生命を維持するためには、他の生命に頼るしかないという事実が読み取れる。が、それは私の勝手な解釈であろう。
 『お魚』に描かれているのは、他の食材に比しての魚の特殊性であり、その特殊性に対する詩人の感想だけである。
 そして、「かわいそう」と言いながら、彼女は箸を止めずに魚を口に運んでいるのである。
 「かわいそう」と思いながら箸を止めずに自分の口にそれを運ぶ自己を描くことで、魚に対する「かわいそう」という感想が、自身にも照り返されるのである。
 つまり、「かわいそう」と言いながら、その「かわいそう」な魚をほじって食べる自分が、「かわいそう」な存在として感得されるのである。
 彼女の凝視する視線は、対象の細部に及べば及ぶほど、彼女自身にはね返ってくる。
 その痛い感覚が、ここに並べた詩に共通している。
 『はだし』ではそれが、自己愛的に述べられ、さらに他者である「名まえも知らぬねえさん」に対する痛みとして述べられているし、『達磨おくり』では、競技の終わった後に転がっている、さっきまでは競技の主役のように見えていた張りぼての達磨から照り返される痛みとして述べられている。

 凝視することは、自分の視線に対する愛着である。
 そして、それが自己に対する愛着であることに気づいた時、同時に他者の視線に気づく。
 自分の視線と他者の視線とのすれ違いの、そのすれ違いの中に感じる悲しさ。
 他人は自分が見ているようには見ていないことに気づいた悲しみが、悲しさとして表現される一歩手前で表現されているところに、私たち読者がつけいるスキがある−−別の言い方をすれば、私たち読者を吸いこむ真空が生じているのである。
 その真空を生む彼女の力とは何であろう。


小さなうたがい

あたしひとりが
叱られた。
女のくせにって
しかられた。

兄さんばっかし
ほんの子で、
あたしはどっかの
親なし子。

ほんのおうちは
どこかしら。


御本と海

ほかのどの子が持っていよ、
いろんな御本、このように。

ほかのどの子が知っていよ、
支那や印度のお話を。

みんな御本をよまない子、
なにも知らない漁夫(りょうし)の子。

みんなはみんなで海へゆく、
私は私で本を読む、
大人がおひるねしてるころ。

みんなはいまごろ、あの海で、
波に乗ったり、もぐったり、
人魚のように、あそぶだろ。

人魚のくにの、おはなしを、
御本のなかで、みていたら、
海へゆきたくなっちゃった。

急に、行きたくなっちゃった。

 金子みすずは、自己を投影した存在としての子供の孤独感を、おおむねこの二つの詩にみられる二つのタイプで描く。
 肉親からの疎外感と、同世代からの疎外感と。

 今、「自己を投影した存在としての子供」と言ったが、みすずは自分を描くために子供を描いたのではなく、子供を描くために自己を子供に投影したのである。これは後述する。
 また、彼女自身の履歴に照らして考えた時、男勝りで活発な気性を、押さえ込んでいたことも想像できるが、それは、この稿の話題ではない。

 自分が食べている魚に対する思いが自分自身へと逆照射されるような、言ってみれば原初的な視線において、自己の帰属感が「肉親」と「同世代」とに限定されるのは、当然のことだろう。ありていに言えば、子供の幼い意識における帰属感は、親兄弟と遊び仲間という意味の友達に限定されるということである。
 みすずのすぐれた点は、表現者として、子供の幼い帰属感を見つけ出したことである。一見容易なことのようでありながら、多くの児童文学者たちが、そのことをわかっていながら、これほどまでに厳しく表現し得ていないことがらである。

麦藁帽子
          西条八十

母さん、ぼくのあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏碓氷から霧積へいくみちで、渓谷へ落としたあの麦藁帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
ぼくはあのときずいぶんくやしかった。
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき向こふから若い薬売りが来ましたっけね。
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとしてずいぶん骨折ってくれましたっけね。
だけどたうたうだめだった。
なにしろ深い谷で、それに草が背丈ぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき旁で咲いていた車百合の花は、もう枯れちゃったでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ。
母さん、そしてきっといまごろは
今晩あたりは、あの谷間に、静かに霧が降りつもっているでせう。
昔、つやつや光ったあの伊太利麦の帽子と
その裏にぼくが書いたY・Sといふ頭文字を埋めるやうに、静かに寂しく。

 西条八十のこのすぐれた詩も、子供の視線に降りていきながらも、その子供の視線を眺めている大人の視線を払拭できていない。
 もちろん、そのことがこの詩の価値を損ねるものではないが、児童文学というとき、「大人が子供に与えた文学」というスタンスを離れるものではないのがこの詩である。
 金子みすずは、そうした児童文学に触発されながらも、「子供を描くために自己を子供に投影する」というスタンスを見つけ出した。別の言い方をすれば、子供が憑依した、とでも言えばいいのだろうか。
 ここに、二重の視線のすれ違いがある。
 ひとつは、児童文学作家としての、他の作家たちの視線とのそれであり、もうひとつは、その作品の中に描かれたすれ違いである。
 この二重のすれ違いが、みすずを自殺へと追いこんだという推察も成り立つかもしれない。が、これもまた、後で考えるかもしれない。
 ここでは、みすず作品に表れている視線のすれ違いについて考えていく。

 疎外感はさまざまな現れ方をするのだが、私たちを柔らかに苦しめるのは、ものごとのとらえ方の微妙な差ではなかろうか。仲間はずれやいじめは、端的な絶望を我々に与えるが、同じものを見ていながら、そのとらえ方や感じ方が共有されないことは、長い時間にわたって蓄積されていく。それによって社会生活は阻害されないかもしれないが、幼い心にとっては、いや大人でさえも、何らかの克服を要求される心に刺さったとげのようなものである。
 が、また一面、だれもが経験する感覚であろう。
 「貰い子(あるいは捨て子)」感や仲間はずれ感は、さまざまな形で、古来じつに多く文学化されてきているし、そういった作品をいちいち挙げれば、きりがない。
 金子みすずの詩では、そういった伝統的とも言える疎外感が、他者との視線のすれ違いとして、日常の一瞬の中に固定される。あるいは、日常に一瞬よぎるものが、永遠に固定されるのである。

そして、そうした瞬間の固定化や、あるいは固定の永遠化というものは、幼児期特有のものではないかと、思う。
 言い方を変えれば、私たち年経た者にとって、自らの幼児期が、そのように認識されているということなのではなかろうか。
 普遍的な感覚に基づいた一瞬が、その一瞬に凝固し、永遠化される。
 そのとき、みすずの描くすれ違う視線が共有される価値を持つのである。

 ここで、次の詩を読んでみる。

大漁

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう

 この詩の第一連では、漁師たちに同化する視線がうかがえ、幼い孤独感が克服されているかのように見える。
 しかし、それは第二連で、すっとすれ違っていく。「浜は祭りの/ようだけど」と、まるでポイントを切り替えるように、視線が逸れていく。それは、幼い孤独感や疎外感と同じ位置へと線路をすべっていく。
 そして、凝視する視線によって見すえられたすれ違う視線が、見えないものに対する視線へと向かっていることがわかる。

星とたんぽぽ

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでいる、
昼のお星は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

 この、おそらく金子みすずの詩の中でも最も有名な詩は、すれ違う視線を凝視することが、彼女の中で「技術化」されるまでに体得された結果生まれたものであるように思える。
 それほどまでに、この詩の完成度は、『お魚』や『大漁』にくらべ格段に高く、それゆえに最も有名な詩のひとつになったのである。
 ここには、凝視することの悲しみも、他人と違う視線を持つことの疎外感や悲しみも、まさに「海の小石のそのように」深く「沈んで」悲しみや疎外感から海面を見上げているような、また、「瓦のすき」の土くれに埋まって、瓦の下の孤独な感情から通りを見おろしているような、視線が生まれている。


みすず公園から仙崎の海を眺める


191号線の最後の醍醐味は、本州最西端の海岸線を通る国道ということ。

湯谷湾の海岸を通っていると、風力発電の風車が三基見える。

もう少し行って、「北浦」というドライブインで昼食をとる。田舎のおばちゃん夫婦がやっているという感じの店。土日には980円で和食バイキングをやっているということで、さまざまな和風食べ物が並んでいたが、豚カツ定食をたのむ。やはり、どこでもある田舎のドライブインの味。それはそれでよし。

食事を終えて車に向かっていると、老婦人が、角島はどこですかと尋ねてくる。カーナビのスイッチを入れて捜し、教えてさし上げる。海の中を、島へ向かって橋が架かっている。おもしろそうなので、私も行くことにする。

海士ヶ瀬戸を約1.7Kmの橋が伸びている。眺めがよい。海の色がきれいだ。
橋を渡ってすぐに引き返す。

本州の最西端の海岸を縫うように走る191号線は、光景としては越前海岸のような感じもあり、たいへん風光明媚。

響灘に面した矢玉の漁港を過ぎる時、人々が小さな港に集まり、海を熱い視線で見ている。スピードをゆるめ海を見ると、十数隻の漁船が、旗や幟をはためかせて、白い波を蹴立てている。祭りだろうか、競争をしているのだろうか。船はごく普通の漁船の小ささで、数もさほどでもないが、波を蹴っていくその勢いは、晴れ晴れしさと勇壮さがあった。
まさに、玄界灘を相手に日々を送る人々の心意気とでもいうものが感じられる。海を相手に生きる人々の祭りとは、こんなものであったよなあと、思う。


湯谷湾の向こうに、風力発電3基

角島大橋

山陰本線と並んで、海岸線を走る191号線も、いつしか下関市に入る。

191号線の行きつく先を見極めようと、カーナビの指示を無視して走っていると、下関駅西口のガードレールの柱に、「191号線はここまで、ここから9号線」とある。9号線は山口市を通り、益田から山陰海岸に出て、京都に至る。

9号線が山口と京都を結ぶ道路だとすれば、191号線は、太田川の川船の港可部と、毛利氏の落ち延びた先萩、そして、毛利氏の貿易の最前線下関を結ぶ線とは言えないだろうか。

カモンワーフ

さて、金子みすずの終焉の地を捜す。

そこは、「海響館」の真ん前の丘のふもとにあった。小さな公園に記念碑があった。
その公園の隣には、高級そうなふぐ料亭があった。
(実際、店頭の商品見本にはゼロが三つ以上のものばかりだった)

また、その公園の横から「港の見える丘の小道」というのをたどっていこうとすると、マンションの角に伊藤博文の奥さんの実家跡という碑があった。

その小道をたどっていくと、菅原道真が配流のおり、海峡を越える前に身を清め歌を詠んだという小さな神社があった。

伝説は伝説として、下関の現在を象徴する海響館の前に、こうした静かな場所があり、その周りに静かな宅地があった。
そのような場所に、しみじみと暮らすのも悪くないと思った。

唐戸商店街や、ボードウォークをふらふらして、17時過ぎに帰途についた。
土産の鯨カツや、イカ天、エビかき揚げは、おいしかった。

319.7Km走行

寿公園
金子みすず顕彰碑が正面にある。
「【顕彰】:隠れた功績・善行などをた
たえて広く世間に知らせること。」

みずずは「隠れた」存在ではあった
が、

後世の私たちが、「たたえる」などと、
ぬけぬけと言っていいのだろうか。

「ものを見る目」である詩人は、こうし
て消費される。
ここにも小さな植物が、目立たぬよう
に花をつけている
菅原(恵美寿)神社の石段を振り返る
と、正面に「海響館」が見える。