1999年夏の旅
1999年8月
10日:−水俣
11日:−坊津−長崎鼻−開聞岳−山川港−根占港−鹿屋
12日:−鹿屋航空基地資料館−えびの−椎葉
13日:−竹田−阿蘇−山川町−柳川
14日:−吉野ヶ里−
走行距離:1652Km




 「失なわれた青春」などとちょっと青臭いテーマか。

 昨年の岐阜・飛騨・越中・越前の旅が、じつは古の関所を巡る「風雅」がテーマであったのだが、古関を確実にまわれたわけでもなかったが、それなりの風情のある旅であった。
 一昨年は紀州高野山大和三山(大和三山はまぐれだったが)のテーマ。

 今年は、もっと遠くへと考えると、とても日数と金子と体力がつづきそうになく、九州を選んだ。一泊目の水俣まではそれなりの距離ではあるが、それ以後は一日四、五時間の旅になりそうである。尤も温泉にも入りたい、宮崎の椎葉にも立寄りたい、ひょっとすると竹田でもう一泊ということになると、それなりの旅にはなりそうだ。

 水俣は「苦海浄土」がテーマ。安全宣言がなされた水俣湾の旨い魚も食べてみたい。
 坊津から、指宿の砂むし温泉を経てフェリーで鹿屋へ。父の十代後半の日々を見てみたい。
 柳川はもちろん白秋。私が詩にのめりこむきっかけとなった張本人。六騎(ろっきゅ)という白秋ファンには懐しい名の店で食事もしてみたいし、水天宮も懐しい。こうした「懐しさ」を共有するところが白秋詩の白秋詩たるゆえんだろうか。
 オプションの竹田を加えると、滝廉太郎ということで、テーマはより完璧になる。(なぜと問わないで)

 「失なはれた青春」とは大仰かつ、実に訳の分からぬことばだが、青春がフィクションである以上それはしようがない。そして青春がフィクションであるがゆえに、人々の胸をあつくし、それゆえこうしたつまらぬ者のつまらぬ旅のお題目にもなるのである。
 青春がノンフィクションなら、生々しすぎてどうしようもならない。腐りかけた魚みたいなものだ。生々しいとはそういうものをいう。新鮮な魚は、生々しているという。
 水俣において軽しくこのことばを言う気はない。まだ青春の後姿を見ることもなく亡くなった児どもたちのこと。その脳の切片だけが生きたあかしとなった人々のことを、私は感じてくるだろう。
 鹿屋。鹿屋の青春は、父の十七歳のことである。そして杉田飛兵長のこと。父の書棚に「六機の護衛機」があったこと、時機的に父は杉田飛兵長の最期を見たのではないか。それが私の空想であったとしても、私はそこを見てこよう。十六歳の父の選択が予科練であったこと。そしてそれは、じつに健全な職業選択であったであろうことなど、見てこよう。
 柳川は、私に、最初から失なわれた青春としてあらわれた。私が影響を受けた白秋詩の『思ひ出』『邪宗門』の下地には、この地の色合いが刷り込まれていよう。




水俣資料館モニュメント
8月10日薄曇り。8時16分出発。広島から只管車を走らせ七時間半で水俣到着。(途中休憩したり、芥子蓮根つき定食をたべたりして)
四時前に水俣資料館。
こぢんまりとした資料館だったが、沖縄の平和記念館のように工夫がこらされていた。
点数は少なかったが、写真は胸に迫るものがあった。
地元のテレビかなんかの取材らしく、年配の方にインタビューしていたが、取材の後の話(だと思う)で、「広島も同じように伝える人が年老いていく」というような会話が聞こえてきた。
広島・長崎・沖縄・水俣、そしてハンセン氏病で隔離された人たち。
「被害者」が年老いて死減するばかりのことを、本気で伝えていくのは、私たちであると痛感した。
胎児性の水俣病患者は、私と同世代であることに愕然とする。
幸いなことは、私が見学を終えて駐車場に戻ったら、二人の小学生をつれた家族が資料館に向かっていたことだった。
伝えなければいけないことは、懸命に勉強して伝えていかねば。

夕食は八代湾のおいしい魚貝を食べたかったのだが、たまたまみつけた魚貝のお店が満員で遠慮して、その近くの「クッキングパパ」で食べたが、地鶏の刺身もおいしかったし、串力ツは広島の1.5倍はあったし、熊本の地酒(焼酎「白岳」「島美人」「繊月」)もおいしく、満足な出来栄えだった。



坊津
8月11日快晴。8時55分出発。10時、道の駅阿久根で海鮮汁御膳。アラカブ(あいなめ?)の味噌汁。
今日は予定が大幅に狂い、目標のうち二つをキャンセル。というのも制限速度遵守がはげしい。広島のつもりでいたらづれづれ。最初の目的、坊津には1時間近く遅れ、13時25分着。

震洋隊記念碑
坊津は風光明眉なところ。
遣唐使がここから旅立ったことを思えば、海の碧さもひとしお。
しかし、ここも、敗戦近くには、特攻兵器「震洋」の訓練基地があった。梅崎春生の小説に詳しく書かれている。右の写真はその記念碑。
ここから指宿までがまた順法……砂むし温泉はキャンセル。
薩摩半島から大隅半島へフェリーで渡ったが、これまた時間があわずに1時間の待ち。佐田岬もキャンセルして、鹿屋市へ直行。


開聞岳
鹿屋市は私の父親が十七のとき、海軍航空予備兵として訓練していたところ。
自分が十七のときには何も感じていなかったが、自分の子がその年齢になろうとするといろいろ考える……

少年時代の父親を見に行ったわけだが、タ食は居酒屋で薩摩料理と焼酎(なにやってんだか)、きびなごの刺身とつけあげ、とんこつ、鶏のたたき(この辺は鶏が生で食えるほどうまい)。
きびなごは広島ではこいわしにあたるんだろうが、こいわしよりつるつるプリプリして上品な感じ。
つけあげは広島のあげはん、宇和島のじゃこ天と同じ、魚のすり身を油であげたものだが、あげはんのツルツルプルンに対して、ふかふか。じゃこ天のぺらんに対して、プックリ。
とんこつは沖縄のソーキを味噌仕立てにしたようなもの。骨までとろりと煮こんである。



桜島遠景
8月12日晴。9時ホテルを出て、自衛隊鹿屋基地内にある、航空資料館へ。
空母の精密な模型や零戦の復元機体があったりして、プラモ少年だった私は多少わくわくして見たが、見終わってとても疲れ、人工調味料だらけのラーメンを食べたときのような、いやな後口だった。一口で言えば、過去に対する反省がない。沖縄戦にしても、「県民の協力のもと」。特攻にしても、命を捧げた若者たち(十八から二十四歳)の純粋さを称えるばかりで、特攻という後先を考えない作戦に対する反省がない。
これでは同じことを平気でくり返し、若者を無意味に殺すだろう。
いや、今でも、年寄りたちが自分の利権や見栄のために、若昔たちに希望のない未来を強いているではないか。


噴煙の中(わざとじゃなくて、突発
的)
予定をちょっと変えて、桜島へ。墳煙の中をフルオープンでつっこんで、ごほごほ・・・島を一周して、「もりやす」でラーメン定食。広島紙屋町の「カポネ」が実はこの系統であったことに気づく。薩摩ラーメンだったのか!

九州自動車道に入り、人吉ICで下りて椎葉へ向かう。


椎葉へ向かう山中
椎葉は、平家の落武者を追ってきた源氏方が哀れを覚えて殺すのをやめたというほどの、山奥。
離合がやっとの道(国道)が三十キロ近くつづき、標高は高く山は深く、さすがの私もしまいにはうんざりしてしまい、次に下界に下りるまでにー週間かかるのではと思ったほど。
さすがに宿のある地区は二車線の道路だったが。
16時45分、投宿。


椎葉の中心街(?)

この夜の食事は宿「奥日向」にお願いしていたところ、
山女塩焼き、鹿刺身、あげだし豆腐、筍の煮物、椎茸とこんにゃくと筍と厚揚げの合わせ煮、稗のお粥、そばのダゴ汁、フルーツ、稗焼酎。
これだけあって、宿泊込みで8500は安い。
鹿の刺身は山の神様に思わず感謝したほどの感激。
ふつうに食べられている肉類より癖がなく、自然の恵みが甘さとなって溶けていきました。

この夜は外出なし。
何もないんだもん。
宿泊客一人で、寝た。



岡城址
8月13日晴れ。9時過ぎ出発。2車線の道もしばらく行くとまた細い山道に。林道を走り次いで、11時50分竹田市岡城址に。


滝廉太郎
岡城址は、広かった。
滝廉太郎像、土井晩翠の「荒城の月」記念碑がある。

この後、阿蘇南麓を通り熊本から九州道へ。
15時過ぎ、南関ICを下りて、白秋の生家があるという山川町へ行ったが、生家は見つけることができなかった。


柳川川下り
17時前、柳川へやって来た。
中三のときからファンだった北原白秋の故郷に来て、感慨もひとしお。
川下りもしたし、白秋の生家も見たし、白秋詩に出てくる水天宮も見た。
川下りのガイドの船頭さんは、若いお兄ちゃんだったが、話が上手く、乗り合わせた熟年夫婦とともに、楽しく川下り。
その後、歩いて宿へ向かったが、東西を南北と思いこんで、したたかに迷い、やっとのことで宿に帰り着く。


暮れゆく水郷
この夜の食事は有明海の幸。
ワラスボ、青メカジャ、ムツゴロウ、イソギンチャク、ウナギ、柳川鍋はドジョウでなくウナギだったのが少し残念。
宿「さいふや」は古いけれどよく手入れされてていい零囲気。(トイレ、風呂は共同)
柳川はどことなくさびしさのある、いい町だった。
(隣の瀬高町も観光ずれしてなくていい感じだったが)



白秋生家
8月14日晴れ。白秋生家と白秋資料館へ見学に。
司馬遼太郎は漱石を現代日本語を作った一人としているが、白秋もまた、現代日本語に抒情を植え付け、開発した一人と言っていいだろう。
白秋の仕事は多岐にわたっているが、わたしは、やはりあの抒情性にいまだに参っている。
資料館でじいーんとしたりする。

隣には白秋の分家のやっているお土産物屋さんがある。
大したものがなくて、買わなかった。(川下り煎餅じゃあねえ。白秋饅頭があれば買ったかも)

時間があるので、初期の予定にはなかった吉野ヶ里に行った。
柵を巡らし、堀を掘り、ものものしい物見櫓。
弥生時代から、人は人を信じられなかったのだろうか。
今回巡ったところがところだけに、こんなことばかり考えてしまう。

17時30分帰着。
今回の旅は大変疲れた。秋が来ても疲れが取れていない感じだった。


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