さて「わただ」とはなにか

地名語源説には眉にたっぷり唾をつけて考えなければならない。

地名にかぎらず、語源には俗説がたっぷりとまぶしてある。
とくに日本の場合、漢字表記が曲者である。

たとえば「森」姓。森の近くに住んでいたかと思いきや、「毛利」の分家が本家と字が重なるのを避けて用いた字であると「氏姓辞典」に出ているし、また別の本には「森」であったのを「毛利」としたとあったりする。
ともかく、「森」と「毛利」が関係深いことは、漢字表記にこだわる限りうかがい知ることはできないだろう。

あるいは広島の「三次」の場合、次のような仮説が司馬遼太郎『街道をゆく』に紹介されている。

朝鮮語で集落・村を意味する「スキ」という語がある。百済時代にあった「白村江の戦」は「ハクスキノエノ〜」と読まれるように。
それに美称の「み(美?)」がついて「ミスキ」と呼ばれ、それが漢字で「スキ」に音の近い「次」が当てられた。しかし「スキ」という音にひかれて「好」の漢字が当てられたため、やがて「みよし」と発音され、かつての表記の「三次」が「ミスキ」ではなく「ミヨシ」と呼ばれるようになった、と。

さらに山梨県の「西広門田」を「カワダ」と読むにいたっては判じ物である。

私たちはとかく漢字に意味をもとめるのであるが、実際には遠くへだたっているのである。


江津市の渡田は、江の川を「渡った所にある田んぼ」と解すれば、じつに納得しやすい。
しかし、であれば美作市の渡田は、何を渡った所にあることになるのか。
「綿田」と表記される土地が、綿の耕作地であったとすれば、「和多田」とは「みんなが仲良く耕作している土地」なのか。
私の好きな「すし」はもともと「酸し」であったのが、「寿司」と表記されるいたっては、「寿司」を食えばみんなハッピーという意味と解せねばならないのか?

漢字表記をいったんはなれて考えを進めなければならない。
(と言ったときに、小浜の「飯盛」がなぜ「ハンセイ」と音読みなのかという興味も湧いてくるのだが。それはおいおい、機会があれば。)

では、「わただ」とはなにかと、もとにもどる。
かつて私は「わた」は「綿の原」の「わた」、つまり「海」を意味しているのではと考えた。
海洋民族(あるいは一族)の秦氏の土地という意味なのかと。
これまで訪ねた「わただ」は多く内陸部に位置している。朝地町の綿田しかり、唐津の和多田は海に面しているが、大田市の綿田は、大田市自体は海辺の町だが綿田は山裾に位置している。
ある時は、大田市綿田も、小浜市和多田も「飯盛山」の裾に位置しているので、その関係も考えてみたが、すべてに当てはまるわけではない。まして「ハンセイ」なのか「イイモリ」なのか「メシモリ」なのか。

「秦氏の土地」という意味で考えれば、こじつけはできる。
海の民である秦氏の末裔が拓いた、あるいは暮らした土地、として。
どの「わただ」も目立たぬ、遠慮がちの土地である印象であれば、海族である秦氏が上陸して生活を営んだ土地なのかもしれない。
漁師である父方の家系を思えば、その解釈に傾きそうになる。

「氏姓辞典」で「わただ」をひいてみると、「和多田氏」が出てくる。
甲斐武田氏の重臣で、武田氏が安芸の守護を任ぜられたときに一緒に広島に来たとある。
とすれば、広島にいる私はその流れであるのかもしれない。
では甲斐の和多田氏とはなにか。甲斐にいる「秦氏の末裔」とすれば、それなりに納得はいく気がするが。

武田 氏信(たけだ うじのぶ、?−1394年7月11日(応永元年6月13日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名。安芸武田氏の初代当主。甲斐武田氏第10代当主・武田信武の次男。官位は伊豆守。日向守。刑部大輔。

初名は氏信。のち信頼。父の信武が戦功により安芸の守護職を与えられたとき、氏信が安芸に赴いて分家し、安芸武田氏の創始者となった。しかし1368年、幕命により守護職を解任され、安芸銀山城に拠っている。氏信は宗教に対して関心が深く、寺社に領地をたびたび寄進している。1394年6月13日に死去し、後を子の武田信在が継いだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より

さらに、綿について

原産地はインドとアフリカといわれ、紀元前2000年にはインドで既に栽培され、繊維として使われていたことが分かっている。紀元前には既に西アジア、ヨーロッパに伝わっていたが、ヨーロッパではあまり多量には生産されなかった。南アメリカでも紀元前に綿が使用されていた。

中国への伝来は晩唐とも北宋とも言われている。朝鮮半島へは1364年に文益漸が国禁を犯して元から伝えたという記録が残されている。

16世紀以降、交易を通じてインド産などの綿が、主にイギリスにもたらされ、18世紀ごろにはイギリスの羊毛業をおびやかすまでになった。1780年代になると、自動紡績機や蒸気機関が相次いで実用化され、イギリスは綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換した。この綿産業の発展を主軸にした産業構造の変革は、産業革命ともいわれる。なお、イギリス産の綿の原綿は、主にアメリカで栽培されたものである。

日本へは799年、三河国幡豆郡(現在の愛知県西尾市)に漂着した自称インド人によってもたらされ栽培されたが、1年で途切れたという。この故事に由来して、この地には綿神を祭る天竹神社がある。この後、綿は明や朝鮮からの輸入に頼ることになり、長い間高級品であった。その後、連続して栽培され一般的になるのは、16世紀以降とされる。

明治以降、政策により綿布の生産が強化されたこともあり、1930年代には輸出量が世界一となった。第二次世界大戦時は輸出は停止したが、戦後復活し、再び世界一になった。ただしその後は安価なアジア産の綿布に押され、生産量は減少している。

ということならば、
甲斐武田氏の重臣である和多田氏は、「綿」の「田」とは(年代上)関係がないことになる。

また、武光誠氏の『地名から歴史を読む方法』(河出書房新社KAWADE夢文庫)では「和田」の地名が「綿津見」から作られたのではと考証されている。

「わただ」とは「わた」氏の耕作地、さらに「わだた」とは「わだ」氏の耕作地であるならば、「わだた」と「わただ」は同意であると確定できるだろう。

そもそも私は、ワタダの血筋ではない。
父は小西姓であり、母は河野姓である。
父が小学生の頃、名取り養子としてワタダ姓になったようだ。父方の小西と綿田は遠縁であるとも聞いたことがあるが。

直接の血縁ではないがために、「わただ」にこだわるのかもしれない。

自分のルーツはどこにあるのかと。

しかしそれは逆に、血縁関係ではなく、「家」にアイデンティティーを求めようとする「日本的感性」なのであろう。

自分のルーツは小西家と河野家にあるというのが、正当な認識であるはずなのに、私は自分が「綿田」であることで、こうして「わただ」をめぐる旅をしてきたのである。
「こにし」や「こうの」をめぐる旅をしようとは、いまだに発想していない。

たしかに「綿田」が(ある程度)珍しい姓であることも由来している。
しかし、血の流れではなく、姓の流れの中に、私は自分を位置づけていることに、今さらながらに気づくのである。

かくまでに、日本の氏姓制度は、私を縛り続けているのであろうか。

あるいは、姓あるいは名というものが個人のアイデンティティーであることの、確実な証左として、私の感覚や感情があるのかもしれない。

ともかく、今回で「わただ」をめぐる旅は終わりである。

これ以上、「わただ」を見いだすことはできないと判断したからである。
これから先、何らかのかたちで見つけることがあれば、また報告することにする。

しかし、ひとり旅はまだつづく。

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