2007年夏の旅
今回で夏の旅は10回目を迎える。
昨年は亡母の初盆でもあり、父が夏じゅう入院していたこともあり、夏の旅はしなかった。そのかわりというか、5月連休でワタダをめぐる旅をした。
今回はひとり旅を始めて11年目、10回目の夏の旅である。
これまで関西方面にはじつに7回も旅行しているが、大阪市の中央部は通過するばかりであった。通過した回数は、じつに5回に及ぶ。
通過したことに何の理由もないのだが、それは裏返せば立ち寄る何らの理由もないのであった。
まず、都市であるので車で回るのは不都合である。
自然や文物、文学、歴史に私の興味を引くものがない。
はなはだ勝手な理由である。
こうして書いていても、心が躍らない。なんだか仕方なしにこの文章を書いている気がする。
それでも大阪に行くことに決めたのは、一度は行かねばという考えである。
調べれば調べるほど、立ち寄り地点としても、興味を引くものがない。
いっそのこと、車で回るのはやめてじっくり歩き回るのはどうだろう。
文学関係を調べてみると文学碑がいくつかある。
それを中心に、地図上に地点を印していくと、どうも簡単には回れそうになくなった。
二泊して、丸一日を大阪を歩き回ることにした。
テーマは小林秀雄と芭蕉。ということにしておく。
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8月13日(月)晴
9:30出発。10時から志和トンネル付近で渋滞が発生するという予想を慮ってのことである。
車は多いが、山陽自動車道はさしたる渋滞もなく、11:00前福山SAで給油。
11:30過ぎ、吉備SAで昼食。吉備カツ丼、デミグラカツ丼にうどんが付く。デミグラスソースの小麦粉がざらついて、デミグラカツ丼はむずかしいと思った。
13:30ころ三木SAで休憩。
池田ICから豊中ICで都市高速へ入る。
いつの間にか中之島の横を通り、1号環状線道頓堀出口に。
出口からすぐに、じつに順調に14:45大阪なんばワシントンホテルプラザに到着。
道路ひとつへだてて道頓堀という、じつによいロケーション。
しばし休息して、15:30さっそく道頓堀へ。
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もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。
小林秀雄『モオツァルト』の第二章は、冒頭にモーツァルトの交響曲第四〇番K.550第三楽章の冒頭の主題の五線譜を置いたあと、そう記される。
さらに、
僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬヤクザな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。兎も角、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。町の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏したように鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けたように驚き、感動で慄えた。
『モオツァルト』は「創元」昭和二十一年十二月号と、新潮文庫版には記してある。
昭和二十一(1946)年から「二十年も昔」となれば、1926年頃。
年譜によれば、
1925/04初 (22歳) 富永太郎を通じて中原中也を知る
1925/09 中原中也の帰郷中に長谷川泰子に会う
1925/10/08 大島に旅行(泰子は待ち合わせに間に合わず)
1925/10 帰京後盲腸炎(腸捻転?)で入院・手術
1925/11/12 富永太郎、肺結核により二四歳で死去
1925/11/14 正岡忠三郎、入院中の小林に富永太郎の死を告げる
1925/11下旬 杉並町天沼に長谷川泰子と同棲
(中略)
1928/03 東京帝国大学卒業
1928/05/25 (26歳) 長谷川泰子と別れ、関西へ向かう
1928/05末 大阪の日蓮宗の寺に宿坊する
とある。
『モオツァルト』に言う「二十年も昔」とは、泰子と別れた頃であると考えれば、事情が合う。
長谷川泰子の自伝『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』(角川文庫) によれば、鎌倉で小林と同棲中の泰子は神経症的症状を顕し、常に手を拭っていなくてはいられなかった。
そうした泰子に小林はじつにやさしく丁寧に接していたようである。
が、それは、触れてはならぬものを手元に置いているゆえのようにも、思える。
そして、それに耐えられなくなっかたかのような別離。
小林の頭に「ト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴った」のは、そうしたさなかであり、その当時を「自分でもよく意味のわからぬヤクザな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう」とふりかえっているのである。
さらに続けて言う、
モオツァルトのことを書こうとして、彼に関する自分の一番痛切な経験が、自ら思い出されたに過ぎないのであるが、一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えないのである。
「彼に関する自分の一番痛切な経験が」と自分のナマな体験を回避し、「一体、今、自分は、ト短調シンフォニイを、」と途切れ途切れに読点を打ち、「その頃よりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えない」と迂回した断定を下すあたり、まさに小林自身にとっての「一番痛切な経験」がこの道頓堀で、まさに痛切に回想されたと考える可能性はある。
そしてその「痛切な経験」が過去のものとなっていることを、「その頃よりよく理解しているのだろうか」と振り返えざるを得ないのである。
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道頓堀の雑踏は、翌日夜のあふれかえる人混みと比べればそれほどはなかったのだが、戎橋筋商店街の雑踏は、この日が何か特別な催し(たとえば万国博覧会のような)でもあったのかと思えるほどであった。
ざわめくような雑踏は、ト短調シンフォニイ第四楽章のテーマによく似ている、あるいはよくマッチしている。
失われた恋の思いは予期しない状況の中で生々しくよみがえる。
確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のように悲しい。
という思いが、自身のよみがえる感覚の中に確かめられる。
そして、
彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な荷物を引きずっていないだけだ。
という分析は、自らの過去の恋に対する哀惜であるかのようでもある。
彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当たり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。
「彼」(モオツァルト)とは、読者に、小林が見つめる(二十年も昔の)若き日の小林自身と重なって見える。
小林秀雄は、中原中也に対するコンプレックスから生涯脱することができなかったのではないかと、私は思っている。
小林も天才の一人ではあるが、それは中也の天才とはちがう。ちがいすぎる。
小林は中也に対するコンプレックスから逃げることも押し潰されることもせず、早逝した中也の天才というものを、自らの天才で再構築したのではないかと思える。
中也の帽子をかむった有名な写真の目、この世のものには焦点が合わず、その先を見るがゆえに絞りが開いているような目が、見つめていたものを、小林は、近接から無限遠まで見とおすような、あの引き裂かれたような目で描き直そうとする。
彼は、中也の持っていたものを、すべて自分のものにしなければ気が済まなかったかのようである。(たとえば長谷川泰子を奪ったように・・・?)
それはジェラシーであると同時に畏敬であるような感情と、その具現的な行為だったのである。
だからこそ、『モオツァルト』は実体験から二十年(中也の死後から十年以上)経ったから書くことができたようにも思える。
小林秀雄の『モオツァルト』は高校二年生の時に買って読んだのだが、なんだか難しいという印象だけが残った本だった。
晦渋とも思える小林の文章も、言葉ではない「そのもの」を、言葉で表現しようとする苦闘の跡であることが、それから三十数年経った今になって理解される。
美しいものを「美しい」という言葉ではなく、その美しさのもたらした心的・身体的反応を同様に読み手にもたらしたいという、表現者にとってごく当たり前でありながら最も困難な道を、小林秀雄は生涯たどったのだと思う。
そしてそれは小林以前には、中也が(血を吐く思いの一生涯の中で)ごく当たり前のように成したことなのだと、私は思う。
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じつは、そのようなことを考えたり思ったりする余裕もないような戎橋筋商店街の雑踏の中を、私はひたすら人混みを南へと、南海難波駅へ向かった。 |
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途中、そういえば法善寺があったと思い出し、くねくねと探し歩く。
その一角は石畳が敷かれ、それらしい雰囲気である。
水掛不動には数組、参詣者が並んでいた。
それを差し置いてもなんなんで、きちんと並んでお参りしてから写真を撮った。
お不動さんは絶え間なく水を掛けられるせいか、苔が深くむしていた。
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もとの道に戻り、戎橋筋商店街を南へと行く。
NGK(なんばグランド花月)にいこうと考えていたのだが、突然現れた高島屋に、思わずその周辺をうろついてしまった。
新歌舞伎座の昭和レトロな建物が見える。
なんばシティ本館の中をうろついた後、道具屋筋を北へ戻る。
道具屋筋は調理用品の店が建ち並び、店先に並ぶ鍋や調理用具を眺めるだけでも、心をくすぐる。旅先でなければ、あれこれ買っていたかもしれないほどであった。
16:25、NGKはあっけない様子で、道具屋筋を通り抜けたところにあった。
チケットは完売であったので、花月観劇はあきらめて次へ。
なんだか残念だが、暑さのためか、まあいいか、と思う。
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地下鉄難波駅から一駅の大国町駅へ行く。
大国町駅を出て、ひとつ西の裏通りを歩く。
途中大きな派手な看板で「玉出」とあり、パチンコ屋かと思うとスーパーマーケットであった。
涼をとるのをかねて入ってみる。
これといって珍しいものもなかったが、なかなかの安値で、ものも新鮮そうである。
刺身なんかひとパック三百円台。
これからは夕食のおかずはここに買いに来よう! と思ってしまう。
そこから少し行って左折すると浪速図書館があり、その先に敷津一丁目に鴎町公園がある。
そこに折口信夫文学碑がある。
道頓堀、戎橋筋の人混みは嘘のように、人もまばらである。
17:10。少々荒れた感じのする公園内に、数人があちらこちらに涼を取っているのか憩っているのか。
犬を連れて散歩してする人たちも、三々五々やって来る。
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釈迢空・折口信夫の短歌に触れたのは、中学2年の国語の授業だった。
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
釈迢空というと紫の色を思い出すのは、この歌のせいなのだろう。
1887年(明治20年)2月11日、大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西)に生れる。父秀太郎、母こう。七男二女の第七子、五男にあたる。生家は生薬や雑貨を扱う商家で、代々当主は医を兼ねていた
文学碑には、「十日戎」と題されて
ほい籠を待ちこぞり居る 人なかに、
おのづから
われも
待ちごゝろなる
の、『大阪詠物集』からの作が、二行に改められて彫ってあり、つづけて「増井の清水の感覚」の一文が彫ってある。
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ゆくりなく訪ひしわれゆゑ、山の家の雛の親鳥は、くびられにけむ
鶏(トリ)の子の ひろき屋庭に出でゐるが 夕焼けどきを過ぎて さびしも
あまたゐる山羊みな鳴きて 喧(カマビス)しきが、ひた寂びしもよ。島人の宿に
葛の花の歌は、踏まれてみずみずしい色を沁ませた花びらから、自分より前にここを歩いた人があったのかと推測しているのではない。
葛の花を踏んで通った人の姿を、まざまざと目前に見ているのである。
だからこそ「行きし人あり」と言い切っている。それは、自分の直前にこの道を行った人でもあり、太古この道を行った人でもよい。
鶏(トリ)の子の歌の「さびしも」という結句は、親鳥をなくした雛を哀れと思うのでもなく、薄暮の庭に親のいるときと同じようにしている雛鳥の思いと同化している。
そして、たくさんの山羊の鳴き声のやかましい響きのなかに、山羊たちの思いと一体化する。
それは「悲し」でも「哀れ」といったものごとを自分と相手と対象化する語ではなく、何も知らぬかのような、それでいてすべてを知っているような思い、「さびし」でなくてはならない。
文学碑のほい籠の歌も、「おのづから われも」と自覚のないままに、ある一つの思いへと、まるで睡眠へと引きずり込まれるように落ちていく心性のもと描かれている。
歌人としては、正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年(大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
アララギ派の巨人、斎藤茂吉は「観照」を主唱した。
観照の説は、対象と自我との一致・一如を唱えるが、
たとえば茂吉の
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり /『赤光』
などは、自注によれば、母親の臨終の時そこに燕がいたと言うだけである。
もちろんその「言うだけ」というのが肝要で、そこにあるがままを、自分の見たままを描きながら、そこに一個の世界を出現せしめるのが「観照」である。
茂吉が目前の世界をそのまま描き取るのに対して、迢空は対象への没入がいかにも激しい。
迢空は己の性質に関してこのように詠んでいる。
いまだ わが ものに寂びしむさがやまず。沖の小島にひとり遊びて
釈迢空は取り憑かれやすい体質(憑依体質)だったように思える。
一見「見たまま」であるが、その風景中の一風物への没入ぶりは「ものに寂びしむ」というごとくである。
「寂びしむ」とは寂々としたかそけき様相であるが、本人が「いまだ〜さがやまず」というように激しいものであったのである。
また、日本民俗学の祖とされる柳田国男も憑依体質だったようだが、柳田がおもに人事に移入したのに対して、釈迢空・折口信夫の場合、対象が動植物に及び、その点独自であると言って差し支えないのかもしれない。
取り憑かれるとは、我が彼になり彼が我になるといった同一化、一体化、彼我不可分の領域に至ることである。
そうした特性ゆえにアララギと袂を分かつことになったのであろう。
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夏の暑さの去る気配もない、ごみの散らばる公園に、ごく普段着で物憂く集まる人々を思い出すと、それらの光景が「ものに寂びしむさが」ゆえの懐かしさを帯びる。 |
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再び大国町駅に引き返し、御堂筋線動物園前駅へ。
17:40過ぎ、小汚いガードをくぐると細いアーケード街が続いている。人混みで賑わっている。
ジャンジャン横丁である。店、飲食店、それに木造の古びた囲碁や将棋の会所に人が詰まって串カツ屋に行列ができ、昭和初期〜昭和30年代の雰囲気が濃厚に漂っている。
ここの濃厚な大阪の空気に比べれば、道頓堀界隈は観光客の街である。
通天閣へ行ってみる。
40分の待ち時間と係の兄ちゃんが言うのであきらめて、食事にする。
昔からありそうな構えの串カツ屋もあるが、あまりに暑いので、空いている店に、客寄せの兄ちゃんに「涼しいか」と聞くと「涼しい」と言うので入る。
ビールと串カツをあれこれたのむ。
串カツ、豚カツ、かしわ、かぼちゃ、つくねチーズ、たまご、もち、ししとう、すなずり、トマト、どて焼き。
さっぱりしたソースに、どれも美味い。一口で入るのがまた食を進める。
ひと串100円程度で、ビールを2杯で2000円ちょっと。
チェーン店風の構えだったのだが、味は確か。満足。
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食べていると客が次々と入ってくる。
地元の若者たちのようである。
どの女性も美しく可愛い。
いや、年寄りの色呆け話をしようというのではない。
後から入ってきた青年のさっぱりした風姿や物腰に、都会というものを考えてみたのである。
都会というのは、常に見られている場所ではないか。
見られることによって風姿や物腰が洗練されていく。
一方自然の中では、私たちを見る存在がない。「野暮」とか「垢抜けない」というものがそうして蓄積していく。
大阪にかぎらず、東京でも、京都でもそのような人たちを見た。その他の都市、街でもそのような人はいる。
可能性の大小であったり、生まれついての環境であったり、文化的遺伝の蓄積であったりするのであろうが、大阪の新世界に集まってきた若者たちは、私にそのようなことを考えさせた。
また、大阪とはとらえどころのない所だという印象を、私は持っていた。
それが私の旅を大阪から遠ざけていた要因であった。
これまでの旅に倣い、文学歴史上の史跡をめぐるには、インターネットで調べてもさほど熱心さが伝わるページにも行き当たらず、思いあぐねた末に思い切って出かけたというのが本当のところであった。
東京は、司馬遼太郎の言うところによれば「近代文明の配電盤」であり、私のような地方在住者はその恩恵によって育ってきたのである。
私が旅した多くの土地は、それを手本として育成されてきた土地であり、そこに見られる文化文物は、東京を基準に私の中に位置づけることが可能であったのである。
その意味で、鹿児島に行っても富山に行っても、不忍池の端のステーキハウスで食事しても、何の違和感も感じなかったのである。
先述の「見る/見られる」という考えからすすめれば、大阪の視線は「ここにあるものを見る視線」であるのに対して、東京は「ここにないものを見つづけようとする視線」であると言えるのではないか。
それが大阪の閉鎖性とも見えれば、自己充足性とも見えるのではないか。
しかしいったんその中に入り込んでみれば、まるで発酵食品のようなその豊穣さに驚くのである。
大阪の人は「太閤贔屓」であるというが、実際に大阪が発展したのは江戸時代である。
豊臣秀吉が大阪城を築城開始したのが1583年、徳川家康が江戸城に入城したのが1590年であり、さらに江戸城が完成したのは、家光の時1636年と言われる。
大阪城は大阪夏の陣で消失し、その後徳川幕府によって再建されている。
大阪は徳川家の天領として、経済的な発展をとげてきた。
大阪の現在を築いたのは太閤さんではなく、じつは徳川幕府なのである。
現在のような太閤贔屓は、明治維新以後ではないかと私は密かに思っている。
明治維新の徳川に関わるものの徹底的破却を江戸はもろに被った。
それがゆえに反動として「江戸文化」というものが東京に残った。
大阪はそうした破却からのがれたのでないか。
その理由は、(京都に近いという)地理性、経済性や、天領であったという歴史性が関わっているのではないか。
天領というのは、じつは徳川贔屓ではなく、ニュートラルであるように思える。
その理由は心理的、歴史的にさまざま考えられるが。
そこに明治維新というバイアスがかかったのではないか。
その結果、東京よりももっと色濃く、江戸時代が残されたのではないか。
そんな気がする。
その程度の、論考というより感想であるが、そう考えたときに、大阪の風土的豊かさが匂い立つように感じられるのである。
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地下鉄堺筋線で日本橋駅まで戻り、地上に出るとホテルはすぐ近くだった。
思わず行きすぎて迷うほどに。
走行距離:346.2Km
歩行距離:約4.5Km
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