8月14日(火)晴
この日は車で回ろうか歩こうか、ぎりぎりまで迷っていた。
小回りがきくことを考えて徒歩、ただし全部歩くと一日では回れそうにないので、地下鉄を利用することにした。
9:00ホテル出発。堺筋線日本橋〜なんば駅で乗り換え、御堂筋線天王寺へ。
JR天王寺駅を通り抜けて、天王寺社会保険事務所脇の小道を北上する。
のどかな朝の様子。
悲田院町という住所表示がある。
ひでん-いん ―ゐん 【悲田院】
貧窮者・病者・孤児などを救済した施設。723年、興福寺に置かれたのが最初とされる。730年、光明皇后の皇后宮職に施薬院が置かれた際に平城京に官設され、平安京では左右両京に置かれた。平安中期以降衰退。悲田所。(大辞林)
じつに古い名前が、そのまま住所として残っている。
さらに進むと途中「竹本義太夫墓」との石碑の建つ門がある。超願寺である。
そこを過ぎるとじきに四天王寺の南大門が目に入る。
|
|
|
9:43。四天王寺へ。
593年聖徳太子によって建立されたと言われる寺院であるが、現在の建物は第二次世界大戦後のもの。
607年建立の法隆寺が、世界最古の木造建築物として残っているのと対照的であるが、その赤と緑(いわゆる青と丹色)の建物群は、今に生きている様相でいかにも大阪的ではある。
太子堂を参観する。そこが一番色彩的にも一番落ち着いていそうだったから。
盂蘭盆会万灯供養法要のさなかのためか、境内にはたくさんの露天が並び、伽藍の内側では蝋燭を立てる台の整理に、雑然とした雰囲気と、訪れる人々の真摯な様子とが、混然としてひとつの雰囲気を作っている。
重要文化財の石鳥居をくぐって出る。
谷町筋を北上し、10:15。マクドナルドで遅い朝食。
マクドナルドすぐ横の、谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘から、わずか1Km足らずの隣駅、谷町九丁目へ。
|
|
|
そこから歩いて、
10:54。近松門左衛門墓。
近松門左衛門の墓は、あらかじめ調べておいてはいたのだが、実際に行ってみると何とも言えない場所にある。
ガソリンスタンドとマンションの間の隙間の奥の空間に、はまり込むように建っている。
しかも説明の墨書の板看板にはスプレーで落書きされているし。
|
|
|
近松の墓から上町筋へまわると西鶴の墓がある。
11:05。誓願寺井原西鶴墓。
誓願寺は普通の寺の様子であった。
若い夫婦が子を連れて、花を持って墓参りにやってくる。
そんな普通の墓所の奥に、西鶴の墓と句碑がある。
質素なたたずまいであるが、祀る者たちの敬意が感じられる。
寺門の内側には武田麟太郎の文学碑がある。
|
|
|
誓願寺を出て角を曲がると、東平公園がある。
そこに薄田泣菫の文学碑があるというので行ってみるが、みつからない。
ふと道の向かいを見ると、幼稚園の庭と思っていたのが東平北公園であった。
私が一生懸命碑を探していたのが東平南公園。
11:10。東平北公園、薄田泣菫文学碑。
薄田泣菫はその名前は知っているが、作品はほとんど知らない。
旅から帰って急きょ読んでみた。
作品の感想はともかく、岡山から出てきた青年が、天性の才を資に、詩文の世界を遊泳していたさまが想像される。
泣菫自身は後に随筆の世界にうつり、情緒ありながら批評精神のきいた良い随筆を残している。 |
|
|
地図を見ると真田山公園まで1Km弱なので、歩いていくことにした。
真田山公園までは、土地がゆるやかに起伏している。
このあたりは上町台地といわれ、古代からの土地である。
午に近づくにつれ暑さが焼きつくようである。
ひいひい言いながら、ようやく
11:30。真田山公園。
真田山はその名のとおり、真田幸村が大阪城の出城として真田丸を築いた場所。現在では、プール、野球場、アイススケート場、テニスコートなどがある、スポーツ公園だそうだが、真田丸に関する案内も、碑もない。
少年野球の試合をしていた。そういえば前回の夏の旅でも、少年たちが野球をしていた。
少年野球以外に何もなく、JR鶴橋駅へ向かう。
鶴橋駅周辺は、昼ご飯時もあってか、焼肉のたれの香ばしい匂いがしている。あちこちに焼き肉屋がある。
今夜は鶴橋で焼肉と考えていたのだが、・・・・・。匂いを嗅いでよしとする。 |
|
|
JR鶴橋駅から森ノ宮駅まで。そこから乗り換えて、中央線本町駅から御堂筋線心斎橋駅まで。
心斎橋筋商店街を少し外れて、少しばかり迷ってうろうろしたが、
12:30ころ。松葉屋。
きつねうどん発祥の店、松葉屋で昼食。
お品書きに「おじやうどん」というのがある。心ひかれてビールとたのむ。車でなくてよかった。
おじやうどんが来るまでに、隣席の人がたのんだきつねうどんを見る。
汁は黒く、関西風のうどんとは違うようだ。
間もなくおじやうどんが来る。
汁は色とは違ってわりとあっさりしていた。
かまぼこ、煮つけた椎茸、あぶらあげ、焼きアナゴ、鶏肉、具の一つ一つもよい味が付いているし、玉子、紅ショウガがいいアクセントになっている。
うどんにご飯が入って、このちょっとしたお行儀の悪さが、何とも言えず美味しい。
ビールにもよく合う。徒歩にしてよかった。
友人を連れてきた男性が、私の後ろの席に座ったが、おじやうどんがいかに酒に合うか説明していた。まさにそのとおり。
心斎橋商店街のアーケードに戻り、北へ向かう。 |
|
|
しばらく行くと、偉容な空中建造物に出会う。都市拘束環状1号線である。
そこを右に折れ、御堂筋を少し南下すると、側道との分離帯の中に石碑がある。
13:14。芭蕉終焉地。
近くまで行き、しばし呆然とする。
元禄七(1694)年十月十二日申の刻(午後四時頃)、芭蕉は51年の生涯を大坂南久太郎町御堂ノ前(現大阪市北久宝寺町三丁目)花屋仁右衛門貸座敷にて終えた。 門人支考の『追善日記』によれば、この日は、朝からよく晴れた小春日和であったという。
今目の前にあるのは、夏の御堂筋の、広い自動車道を行き交う車と建ち並ぶビルディング。
芭蕉臨終の往時をしのばせるものはない。
ただ大坂の空気が、俳聖と後人に呼ばれる芭蕉をつつんでいたであろう。
どうにもつかみどころのない気分で、靱公園へ向かう。
歩きながら、臨終を迎えた芭蕉が身をゆだねていた大坂というものを感じ取ろうとしていた。
井原西鶴(本名平山藤五(ひらやま とうご)、寛永19年(1642年) - 元禄6年8月10日(1693年9月9日))
松尾 芭蕉(寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))
近松 門左衛門(承応2年(1653年) - 享保9年11月22日(1725年1月6日))
彼らが生きていた大阪とは、しかし、けっきょく今自分がゆだねているこの空気がそれなのかもしれない。
|
|
|
都市高速が上空で交叉するその下を歩いて、13:36、靱公園に。
靱公園は大木の植えられたプロムナードを持ち、中央には噴水広場やバラ園のある、大きな都市型公園である。
梶井基次郎文学碑がどこにあるか、心もとない。
その中を散々歩いて、入ったところと反対側の、鬱蒼と植えられた木々の根元に、梶井基次郎文学碑はあった。13:50。
中央線本町駅に戻り、そこの長い地下を歩き堺筋線本町駅へ。
地下鉄の駅が広がっているというか、つながっているというか、じつに長い距離であった。
|
|
|
堺筋線北浜駅で下車。地上に出るとすぐに難波橋。
難波橋の途中で階段を下りると、14:28、中之島公園に。
真夏だというのにバラの花が美しく咲いている。
猫たちが、うだるような暑さの中昼寝をしている。
三好達治文学碑を探すのである。
探しても、ない。
夏の暑さは容赦ない。
16日には岐阜県多治見市、埼玉県熊谷市で40.9度を記録したほどの暑い夏だった。
探せど、見つからない。
ぐったりして、15:00頃、東洋陶磁美術館喫茶店に。
今年の夏はなぜか、暑いからといって冷たいものを摂る気にもなれなかった。
ホットコーヒーをたのむ。
30分以上はそこにいて、涼をとる。
15:40、支払いの時にレジで、三好達治文学碑がどこにあるか尋ねてみる。
東洋陶磁器美術館の受付の方にわざわざ尋ねてくれると、三好達治文学碑は工事のため撤去中ということであった。
工事中を写真に収める。やれやれである。 |
|
三好達治の詩集『南窗集』に、「友を喪ふ 四章」がある。
その冒頭の詩、
首途
真夜中に 格納庫を出た飛行船は
ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて
梶井君 君はそのまま昇天した
友よ ああ暫くのお別れだ・・・・・・ おつつけ 僕から訪ねよう!
さらに、四つ目の詩、
服喪
啼きながら鴉がすぎる いま春の日の真昼どき
僕の心は喪服を着て 窓に凭れる 友よ
友よ 空に消えた鴉の声 木の間を歩む少女らの
日向に光る黒髪の 悲しや 美しや あはれ 命あるこのひと時を 僕は見る
三好が東京帝大に入学後の1926年、梶井らによって創刊されていた雑誌『青空』の同人に、三好が加わることによって梶井と三好は、出会った。
1927年には、伊豆湯ヶ島に転地静養中の梶井を見舞い、7月から11月まで滞在と年譜にはある。
その後1932年(昭和7年)3月24日、32歳で梶井は永眠する。
その時三好は、胸部疾患に心臓神経症を併発して、東京女子医専附属病院に入院中であった。
出会いから数年ではあったが、浅からぬ思いがあったことが、推しはかられる。
今私の前に、図書館から借りてきた「現代日本文学全集43 梶井基次郎・三好達治・堀辰雄集」がある。昭和29年5月筑摩書房発行の初版本である。
梶井、三好、堀と三人を並べると、何かしらひとつの、ひじょうに濃厚な、文学的香気ともいうべきものが立ちのぼってくる。
じっさい、本を開いて、活字の形が目に入るだけで、むせかえるような思いが私を襲う。
『抒情の論理』(吉本隆明・1963)所収の「『四季』派の本質-三好達治を中心に-」の中で吉本は、
戦争の現実に顔を向けることを強いられ、前途はどうせ無いものと思い定めていたわたしは、まったくかんがえも及ばない世界を展開してみせている「四季」派の抒情詩を前に、私たちはとうていこんな平安な生涯をおくれまいが、こういう人生や自然の感じ方があっても悪くはないではないか、とおもっていたのである。
と述べている。
この文章自体は、三好達治に対する批判的文章なのであるが、「三好達治を中心とした」「四季」派に対する感性的とらえ方は、私(たち)とさほど離れてはいないだろう。
吉本のこの文章の初出は1958年であり、それは私の生年であるが、私が三好達治や立原道造らの詩に心奪われる思いを持った十代後半、「前途はどうせ無いもの」という思いは針の先ほどもなかったが、「まったくかんがえも及ばない世界を展開してみせている」詩に、まるで真空に吸いつけられるように引き寄せられていた。
この大阪旅行の「お題目」を考えていたとき、三好達治が大阪生まれであることを知った私は、彼らの「抒情性」の何らかを探る旅にしようかと考えた。
三好の詩を読み、自分の中にある大阪のイメージと重ね合わせて、旅の構想を練ったが、何もつかむことはできなかった。
その抒情性を、「昭和モダニズム」と言うことも可能であるかもしれない。
そして、大阪の本質は「モダニズム」である(レトロな意味でも)と言うこともできる気がする。
しかし、三好達治の詩の雑ぱくさが、それであるとしても、それが大阪の本質なのか、あるいは、三好達治の詩を大阪という土地柄が生んだのかということになると、何とも言えない。
大阪を歩いても、たった一回限りでは、土地柄と詩人個人の抒情性とのつながりは見いだせない。
これは、最初の予感どおりであった。
私は、三好達治も、大阪も、とらえそこなっているのだろう。
しかし少なくとも、芭蕉が息を引き取ったという感慨も、三好達治に関しては感じ得なかった。
それは、梶井基次郎に関してもだった。
私は、大阪に関して、旅から帰った今も、何も知ってはいないし、感じ取ってもいない、ということが本当のところなのだ。
生まれた土地が、その人の何らかの傾向を規定するということは、漠然とうなずくことはできるが、いざそれを説明するとなると、困難を覚える。
ましてや文学作品を、作家の出生地が規定するかということについては、関係ないというありきたりの結論しか出せないだろう。
織田作之助にせよ、作品の舞台が大阪であるということだけが(登場人物の性向も含めて)、よりどころであり、表現者としての本質が何によって規定されているかという問題になると、まるで血液型占いのような、いいかげんな頼りなさに行き着かざるを得ないのである。
旅を計画し始めたとき、、三好達治の詩の拠って立つものが大阪にあるのか探ろうと考え、その詩を読み返した。
繰り返し読みながら、この抒情性に戻ってはならないのだという思いが、私を繰り返し襲った。
理由はわからない。本能的な、皮膚感覚というべきものである。
先ほど「三好達治の詩の雑ぱくさ」と言ったが、その「雑ぱくさ」とは「庶民性」と言ってもいいように思う。
梶井の死を悼む詩のようなものから、高度な文学的感性や技巧的知性に彩られたものまで、足の裏は庶民性から一ミリも離れていないことがわかるだろうか。
私が戻ってはいけないと感じた抒情性とは、そこなのかもしれない。
これは、私の極個人的な問題である。
個人的問題を読ませて、ごめん、である。
|
再び堺筋線北浜駅から地下鉄に乗り、日本橋駅まで戻る。
日本橋駅に国立文楽劇場への矢印があるので、それに従って地上に出る。
16:07。国立文楽劇場はすぐ目の前であった。
谷崎潤一郎文学碑は国立文楽劇場のすぐ横にあるという、いい加減な記憶にしたがって探す。
文楽劇場の周りをぐるりと歩くが、見あたらない。
歩く範囲を広げて、もう一度ぐるりと歩く。
いいかげん疲れてくる。
あきらめかけたところで見つかった。
地下鉄から出てきた階段のその後方に、歩道の植え込みに埋もれて文学碑があった。
16:23。谷崎潤一郎文学碑。
関東大震災によって古き日本はもう東京にはないと観じた谷崎は、関西に移り住み、作品の世界も関西にとる。
住居は京都、神戸であったが、その造形的耽美な世界は、文楽劇場のそばにあることがふさわしく思われる。
しかしながら、谷崎らしい装飾の施されたその文学碑は、植え込みの中で、文面を読み取るのも一苦労であった。
ホテルまではすぐである。
この日、地図上で測ってみると10キロメートル以上歩いていた。
しまいには膝がしくしくと痛んだ。 |
|
|
この夜はおでんが食べたかった。
人混みの道頓堀を西から東へ、また行きつ戻りつするが、それらしい店がみえない。
道頓堀を離れて千日前の方へ行くと、おでんという提灯がかかっているので入る。
ふつうの居酒屋であったが、おでんはすっきりとしたダシで上出来の部類。
ビールに、日本酒をたのむ。すっきりした味わいで、銘柄は奈良の「春鹿」。
昨日に続いて串カツもたのむが、これも美味かった。
ごく普通の地元人相手の居酒屋であったが、それでもやはり大阪なのか、いいお店だった。
|
天王寺駅〜四天王寺=約1055m。
〜四天王寺夕陽が丘駅=約490m。
谷町九丁目駅〜近松門左衛門墓=499m。
〜誓願寺井原西鶴墓=593m。
〜東平北公園薄田泣菫文学碑=約130m。
〜真田山公園=約824m
〜JR鶴橋駅=約643m
心斎橋駅〜松葉屋=約750m
〜芭蕉終焉地=約716m
〜靱公園梶井基次郎文学碑=約1350m
〜本町駅=約680m(+構内340m)
北浜駅〜中之島公園=154m
〜東洋陶磁美術館=約590m
〜北浜駅=約483m
日本橋駅〜谷崎潤一郎文学碑=約864m(実際には数m)
〜ホテル=約236m
計10397m
|
|