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8月14日 松阪市 |
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13日は寝坊してしまったので、出発が12時になってしまった。
出発しても、行き先に決心が付いていなかった。松阪に「綿田を探せ」の旅に
行くか、新潟に行くか。
そのせいで、なんの考えもなしに五日市ICから中国道に入ってしまった。IC
から分岐点までの間に、「綿田を探せ」に何となく心決まっていたのに・・・・・ |
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出発が遅れたので、到着も夜中になるのは覚悟していたが、宝塚IC手前で25Kmの渋滞
に巻き込まれ、抜けるのに50分かかってしまった。途中のSAでホテルに予約入れたの
に。
さらに近畿道のJCTを間違えて、天理に行くつもりが奈良に降りてしまった。そこから天理
までは迷うことなく行けたが。天理市内で7時になったので、スーパーでパンとコーヒー飲
料を買って駐車場で食べた。
そこからまたすんなりと行けばよいものを、天理大前の信号でCDを交換しようとしてたら
青信号になり、後の車にブイブイいわされて、あわてて直進したら細い山道になってしま
い、天理の山中を夜のドライブ。
なんとか阪名道に入って関から伊勢道に入り、やっとのことで松阪に入ったのは、10時
だった。
駅前にあるのですぐに見つかると思っていたホテルも、ガイドブック(2年前に買った)とは
名前が変わっていて、駅前からホテルに電話してホテル入りしたら10時30分になってい
た。
その夜は旨いものも食べられず、自販機で買ったカップうどん・・・・(+_;) |
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松阪城の入り口当たり |
樹齢150年(?)の藤の大木、お城にあった |
お城から松阪市内(東)を見る |
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お城から松阪市内(南)を見る |
本居宣長旧宅(鈴屋)の入り口 |
石碑なんだけど、お城に日本猿の檻があった、なぜだろう |
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鈴屋玄関横の格子から |
鈴屋の内部、右手に二階への階段がある |
宣長の肖像のかかる部屋 |
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鈴屋の裏、井戸と洗い場がある |
鈴屋の裏口 |
「宣長さん」 |
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御城番屋敷、今も立派な住宅街 |
説明文 |
このあたりが大黒田町字綿田 |
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松阪を発つ前に、本居宣長記念館に行って来た。松阪城は岡城、宇和島城と同様、典型的
な平山城の様子であった。その中腹に、その記念館と宣長の旧居鈴屋を移築したものが並
んで建っていた。
記念館の展示はこぢんまりとしているが、宣長の肉筆に触れられたのは感が深い。
いわゆる「国学」に何の興味もないが、宣長の学問のスタンスには、興味と言うより、自分と同
種の物好きさを感じた。
十代の時に筆写したという内裏図には、当然ながら、宣長の基本がある。律義なまでに正確
に模写しようとしているが、案外手先は不器用なのだろうか、定規を当てて引いた細線もとこ
ろどころで食い違いを見せていたりしている。宣長の書く文字も、達筆の範疇に入るのだろう
が、ぎごちなさを残している。
さらには、日本地図の集成模写(廣嶋ヨリ二里のところに草津とあったのは、宣長が何を考え
ながら書き込んだのか感慨深かったが)にしろ、外国の地名も書き込んだ世界地図の模写に
しろ、また万葉研究にしろ、宣長の学問はまさに「まねび」であったことがまざまざと伝わってく
るものである。
その「まねび」とは、完成品を似せることではなく、完成品に至るまでの過程を自分の手でた
どることであるのが、とてもよくわかる。
そして、手を動かすことによって、その原作者と同化できる人であった。
先ほど文字にぎごちなさが残っているといったが、文字や、線や、そのたどたどしさが、かえっ
て、宣長が手を動かしている時の、その瞬間に何を感じ取っていたかを、よく伝えてくれる。
いずれにせよ、手を動かすのが好きな人であったのがよくわかった。十代のころに、あれだ
けこだわって模写するのは、プラモ少年と同じかもしれない。
その結果があの学問の集成であった。いわゆる変人であろう。とにかく自分の手でコピーしま
くったのだから。
地元の人が、「宣長さん」と呼んでいる雰囲気がよくわかる。
その後、「牛銀」で(ただし「洋食屋」のほう)で牛カツ丼の昼食を取った。味噌カツにも通じる
甘めの味のソースカツ丼だった。少々趣味に合わないが、美味であることには間違いない。
味噌汁が美味しかった。1300円。
店を出てほんの少し行くと、そこに宣長の旧居跡があった。私としては、お城にあるより、「牛
銀」の近くにある方が、「宣長さん」らしく思われた。 |
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