8月14日上野市



上野城
俳聖殿
芭蕉記翁念館
上野城登り口
俳聖殿
芭蕉翁記念館入り口
芭蕉生家記念碑
芭蕉生家入り口 芭蕉生家
古里や臍のをに泣くとしのくれ
芭蕉生家入り口(この日は休館)
芭蕉生家、塀越しにごめん


松阪から伊勢道で45分くらいで、上野市に到着。旅程が逆だったことに気づくが、もう遅い。1時3
0分過ぎころであったが、上野城には多くの人がいた。登ってみると忍者屋敷。目当てはこれか。
芭蕉翁記念館には誰もいなかった。展示物も少なく、複製物も多い。館内に芭蕉像があるが、上
野駅前の像の方がやれた感じが芭蕉らしくていい。などと文句を言ってもしょうがない。
宣長は芭蕉のことをどれくらい意識していたのだろうかと、旅から帰った今になって思ってみる。
展示の中に許六の絵に芭蕉が讃した物の複製があった。かねてから許六のことが気になってい
た。彦根藩の重臣であったこと、ハンセン病を病んでいたこと、芭蕉が格別の賛辞を寄せて「乗り
掛けに黒羽織はこの人の本意にあらず」とまで言ったこと、等々。
たしかに巧い絵であった。が芭蕉の絵の方が、破れ目や綻びが世界を広げているようで、やはり
と思った。
許六の作品よりは、その人の人生の方に興味がある。



  秋十歳却って江戸を指す故郷  芭蕉

今日は閉館日で外からそのたたずまいを見ただけだが、芭蕉の生家はつつましい。
十代前半から城に出仕し、二十二で主君蝉吟を失い、二十九で江戸に下る。
降るように鳴く蝉の声に埋もれる上野城趾を歩いていると、芭蕉の句に現れる『蝉』に
は、亡き主君蝉吟が常にこだましているように思われてならない。
蝉吟を亡くした二十二の時から二十九の時まで、芭蕉は城に登ることがあったろうか。
立秋のころ、ぬぐっても流れる汗をかきながら、芭蕉はこの坂、石段を登っただろうか。
芭蕉の哲学者らしい、しかつめな表情というのは、このころに成されたものな気がする。
江戸に下り名を成し、ほぼ干支一回りで隠居し、五十過ぎて東北の旅に発った芭蕉の
覚悟のほどは、既にこのころに成されていたものだという気がする。

前掲の句、犀星の『小景異情』と同様の痛いばかりの望郷がある。
さらに、捨てるに捨てられぬ望郷を切り捨てようとする心がある。



てなことで、この日は3時にはチェックインしたのだが、涼しくな
って芭蕉生家をたずねたり、上野焼きを買い求めたりして、その
後ホテルでうたた寝をしているうちに、また食事の機会を逃が
し、またまた・・・・自販機のカップラーメン。昨日のホテルとチェ
ーンらしく、同じカップ麺の自販機でした。



前のページへ この旅の始めへ 次のページへ