8月15日(晴)

本郷


 竜泉を後に、上野に向かう。16時30分、この日の宿、水月ホテル鴎外荘に到
着。が、駐車場に車を回すときに駐車場は左と言われてたのに右ばかりを見て
見落とし、上野の山をぐるりと回ることになった。おかげで国立博物館や、芸大の
前を通ることができたのだが、東京芸大の前を通ったときは、心静かではおれな
かった。若い日の嫉妬心や怨情ともいうべき。おかげで本郷散歩に行く気も失せ
そうになったが、部屋で日本酒コップ一杯半ひっかけて出掛ける。目指すは、立
原道造記念館と菊坂である。17時30分。途中、北村季吟や川路聖膜の墓所が
あった。




 不忍通りから言問通りへ回って東大の塀沿いにいくとすぐに、夢二記
念館のそばに立原道造記念館はあった。17時閉館ということで、観覧
はできなかったが、新しい、なにかの事務所のような建物であった。
 道造の詩も辰雄と同じような繊細さを持っているが、こちらは好きであ
る。記念館の入り口に彫りつけられていた詩のように、少々難解さを持っ
ているところや、ソネット形式を用いた建築家らしい整合性が好みに合う
のだろうか。

 本郷通りを歩く。
 東大からは、盆にも帰らないのだろう、学生がけっこう出てくる。あいつ
もあいつも、ここで青春を過ごしたのかと、古い友のことを考えてみる。私
は結局郷里の広島を選んだのだ。なぜだろう。音楽の勉強が閉ざされた
以上、なにをしてもどこにいても同じだと思ったような気がする。
 また、「東京」ということを考えながら歩いた。東京も日本の一地方であ
り、地元人もいる。しかしここを歩いていると、日本のミニチュアであるよ
うに感じる。それは、この学校に日本各地から学生がやって来ているか
らかもしれない。歩いていると、果物屋の店先に「本郷も・・・(失念した)
までは江戸のうち」とある。なるほど、本郷は江戸城外堀の外、江戸では
ないのだ。日本各地から来た学生を、敬して遠ざけるのに絶妙の距離な
のかもしれぬ。
 などと考えているうちに順天堂大学に出てしまった。


立原道造記念館の入り口


菊坂。来た道を振り返って
菊坂の裏道。暗いので手ぶれてしまった
 東京の坂道には欺かれてしまった。平地の町広島にいると、東京の
坂道にだまされる。広島にいる私にとって、坂道とは上るもので、下る
ものではない。お陰で、本郷通りからは下りになる菊坂に気づかなかっ
た。菊坂とは上るものだと思いこんでいたのである。本郷台と呼ばれ、
宿から坂道を上ったはずなのに、だらだら下る坂道を下る途中にある
からか、いやそれより繁華な場所が坂の上にあるという意識が広島人
の私にはない。
 お茶の水から来た道を戻ってもそれらしい「坂」はない。途中書店に
入って地図を立ち読みし、ところ番地を頭に刻む。ありました。本郷5
丁目の1の角を折れると、だらだら下り弓なりにつづく坂道が。
 日は暮れ時折風が吹くが相変わらず暑い。坂を下りきってから、裏
道を歩くことにする。宮沢賢治の下宿跡の案内板がある。そうそうたる
文学者たちが、この坂道にゆかりがある。
 疲れ切って、だるい足で宿へと向かうが、何度か行きつ戻りつする。
不忍通りの裏道で思わず突風が吹く。今日は終戦の日、英霊たちが
戻ってきているのか。ただしこれは旅に出る前に読んでいた『三島由
紀夫と盾の会事件』(保坂正康)の影響。まあお盆でもあるし、戻ってき
ていても不思議はないが。




 19時も過ぎ、足も疲れたしアルコールの入った水分も欲しいということで、不忍通りの芝
浦のミスターきんに入る。なぜか猛然とステーキが食べたかったのだ。食べ物屋を物色し
ていると偶然この店があった。奥の鉄板前の席に案内される。ステーキコースを頼むと律
儀そうな初老のシェフが、丁寧に焼いてくれた。ナムル、キムチ、ポテトサラダの小鉢がつ
く。大根おろしとポン酢が運ばれてくるが、焼いているのを目の当たりにすると、これはな
にもつけない方が美味しいと直感。たしかにその方が美味しかった。それとコンソメスープ
も美味かった。そこでホテルの場所を尋ねて、ようやく帰宿。
 『こころ』下46段で、「先生」は求婚の後歩き回るが、こんな坂道を上ったり下ったりして
平気だったとは、じつに内面がうかがわれる。



ホテルの中庭にある鴎外旧居。「舞姫の間」として使われている 翌朝、ホテルの部屋から、鴎外旧居。けっこう広い。



 水月ホテル鴎外荘は、森鴎外の旧居をそのままホテルにしてある。ただし、泊まった部屋
は狭い。扉の閉まる音が響き、前の部屋が学生の団体旅行か、嬌声が響く。ホテルの隣は
上野動物園。ゾウやライオンの吠え声がするかと思ったが、それはなかった。
 『舞姫』の試験問題作りには絶好の場所。が、考えたことは別のことであった。
 『舞姫』は、近代的自我の目覚めとか、恋愛の清算とか、いろいろ言われるが、本質は敗
者の文学ではないか。
 ホテルで『舞姫』を読み返してみると、前から思っていたことだが、描き方が非常に客観的
なのである。後年の「歴史その儘」に通底する、鴎外のスタンスがある。
 露西亜行きを告げたときにエリスが「我をば見棄てたまはじ」と言うのに対して、豊太郎は
「何、富貴」と言ってエリスの愛に応えようとするが、そこに筆者としての鴎外の冷ややかな
視線が感じられるのが一例である。
 鴎外は「岩見人森林太郎として死せん」ことを望んだが、「岩見の人森林太郎」の中には、
武士としての自意識があったように思える。武士は義のために死ぬのである。
 エリスの愛は、最初「心の誠」と表現される。「心の誠」とは義ではないか。自分に義を尽く
してくれる者のために、自分は義を尽くして死ぬことができない。彼を殺さないのは明治近
代日本である。彼を殺さなかったのは「舌人」としてのつとめを立派に果たしたためである。
近代日本は、豊太郎の「機能」を求めるが故に、彼が義のために死ぬことを拒んだのであ
る。
 そもそも豊太郎は、藩校で学んだときから某省に勤めるまでの自分をあやつり人形と言
い、本性は「弱き心」と言う。が、実はそれは、近代日本から見た武士の姿ではなかろうか。
「家のため」から始まり「国(藩)のため」に行きつき、そこでは「弱き心」などという自分の本
性は隠しおおさねばならない。また、友や主君(「おのれが信じて頼む心を生じたる人」)に
「否」と言わぬ心は、これもまた義であろう。が、それを自分の弱さ、恥であると告白する。隠
さねばならない「弱き心」をことさらに告白するのは、近代的自我の目覚めであるより、復讐
のためであろう。自分が義のために死ぬことを妨害したものに対する。
 漱石がこだわりつづけた古い日本人の姿が、ここにも見える。鴎外もまた漱石と同じよう
に、日本の近代化の中で呻吟しつづけたのである。はたして今の私に、呻吟するほどの自
我があるのか。
 豊太郎は「人知らぬ恨」をいだいて帰東するが、それは義のために死ぬことが許されなか
った恨みであるに違いない。それが、エリスへの愛と、「岩見人森林太郎として死せんと欲
す」ことを結ぶ、ただ一点であるように思える。
 閑かな、そして毅然とした雰囲気の鴎外旧居の屋根を部屋から眺めて、『舞姫』をつづり
つづけた鴎外のことを、そのように考えた。
 1時過ぎて、向かいの部屋の嬌声も絶えた。じつに躾のよい娘たちだ。


前へ INDEXへ 次へ