誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風
人間にあらざるものとの交感は、人間どうしの交感と同じく、最後はすれ違いの断絶感へと帰着する。
「か」という疑問の係助詞が「も」という強調の係助詞で増幅され、「む」という意志・推量の助動詞、「なし」という形容詞が名詞化され、「に」と逆接の助詞で終結する。
そしてそれらの付属語の前の音、「せ」「なら」という不安定な響き。
絶望の中に立ち続ける伝説の松の緑とひび割れた幹が、「ならなくに」と言いながらも、孤独を共有する共感を生じている。
そして高砂より向こうは、茫漠たる霞のかなたにつづく世界である。
定家の信じた幽玄とは、言葉から発せられた現実の向こうに広がる世界であろう。
明石散人は「幽玄」とはものごとの始まりであると断じた。
ものごとの始めであるから、その先に無限の広がりがある。
そしてそれは、始まってしまえば有限になってしまう脆い一線の上に成り立っている。
定家は、小倉山のふもとで歌と向き合い、自らを異世界へと連れて行く言葉の瞬間と出会っていたのではないか。
言葉は、文字や音声にされると定着されてしまったように思われるのだが、生命を失うことはない。
砂漠の河床に眠る魚がはるか上流から流れてくる雪どけ水によって目覚めるように、いつまでもその命を隠し持ち、私たちが何千里のかなたの雪をわずかでも溶かすのを待ち続けている。
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