8月15日(日) 

昨夜はオリンピック放送を見たり、寝付かれなかったり、うとうとしている内に4時ころ激しい雨が窓に音を立てた。
三日目は雨かと思ったが、朝には上がった。

9:20発。
9:30東大寺に。手向山神社を見るためだが、駐車料l000円支払う。

まず大仏殿へ。初めて見たのではないと思うのだが、大きさは圧倒的だ。
小学生相手の説明を横で聞いていると、大仏の頭のぶつぶつの大きさが人間の顔ほどあり、それが900いくつあるそうだ。

その大きさゆえにか、胸苦しさすら覚える。鎮護国家の祈願を込め、延べ200万が携わったという事業は、「政治」という言葉を思い出させる。
「政治」の「政」は力で屈服すること。古代日本列島国家において、仏教が支配のために用いられたことを、この聖武帝が造営させた仏像が何度か焼失の危険にさらされながらここにあることが、そのことの何らかの説明になっているような気がする。

順路に従ってぐるりと大仏を回ると、大仏殿内でサッカーボールで子供と戯れる若い親子がいるいっぽう、大仏の脇の菩薩像の前で一心に祈る婦人がいる。

今日も信心を考える風景があった。
訪れるもの皆が信仰の対象としてではなく見物として訪れているなかで、そうした姿がたった一人いることが、私に考えることをさせる。

境内には、中国語やフランス語が聞こえ、大仏開眼当時の国際的賑わいを思わせて、おもしろかった。

そうそう、ここの鹿は野生だが国の天然記念物として保護されているそう。
野生の鹿とはいえ、言ってみれば野良鹿。野良犬や野良猫に比して、待遇はよい。吠えたり噛んだり叫んだりしないからか。
ま、鹿は古来神の使いとされていたし。

大仏殿を見て、手向山神社に行く。道真の歌とは無関係とされている。
観覧者はだれもいない。

二月堂へ行く。芭蕉の発句「水取りや氷の僧の沓の音」を、目で見てみる。

しかし、公園化された一帯の中で、お水取りの時の緊張感もなく、しかし急斜面に立つ特異な建造は三徳山の投げ入れ堂を思わせ、修験道と仏教の密着のほどをうかがわせる。

けっきょく1時間ほどいた。



手向山神社の後ろにあるのが三笠
天の原ふり離け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも   阿部仲麻呂

仲麻呂が長安で詠んだとされる。

空間の広さを「ふり離け見れば」の一句が作り出し、「三笠の山に出でし」がその広がりを一点へと収斂する。
その収束が私たちの胸を打つ。


東大寺大仏殿

いにしえの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな  伊勢大輔

「いにしえ」=>「今日」という時間の収束。

「124えの7らの都の8重桜今日9重ににほひNullかな」

数は「null」=無へと収束する。しかも、「ぬる」は完了の助動詞である。

そして完全なnullのあとには、ビッグバンが待っている。

定家はそれを見抜いていた、というのは・・・・・・


このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに   菅家

龍田川の歌と同じく、「神」のイメージ持つ豪壮さが詠み込まれている。

さらに、左遷の後死して雷の神となった道真のイメージも、後世の定家には見えていたように思われる。


10:50ころ、木津町へ。

何気なく奈良と京都の県境を越えるが、かつて峠は結界の地であり、ここが「手向山」かと思いながらステアリングを握る。

木津川の川土手を下りたところに、和泉式部の墓がある。
小さなお堂の裏に、お盆と言うのに供花も線香もなく、ひっそりとたたずんでいた。
愛の遍歴の末にこうした人目につかぬ小さな墓に眠るのも、愛の姿であろう。

そこの地名は「泉町」といい、彼女の名を残す奥床しさがある。

木津川を撮影しようと土手に登るが、広い河川敷は畑や草原で、「湧きて流るる」とはこういうことかと、呆然と思う。

11:00過ぎ、今日はラーメンと思いこみ、サンタウンひまわり館内「豚珍館」で、チャーシューメンと白飯。ラーメンは鶏スープで薄口。煮麺を思わせる。白飯の付け合わせの漬け物はほどよい酸味が美味しかった。


和泉式部の墓

瓶原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ   中納言兼輔

「湧きて」=「分きて」という掛詞。「〜泉川」=>「いつ見き」という序詞。

今も木津町では、木津川は深い茂みのなかを流れ、茂みを分けて流れるのか、茂みの中から湧いてくるのか、まさに情景としての実感である。

そういう川であるので、「いつ見たのか」という内省が、広い河原をおおう夏草の茂みの根もとをさぐるようにこみあげてくる。

「いったいいつ見たからといってこんなに恋しいのだろうか」

すれちがっていく恋心の根源を探れば探るほど、絡みあう夏草のような心理にゆき当たる。

草を分けて流れ出る川のように、隠れていても否みがたい本心として流れつづける。それに「瓶原」という古宮が、ものさびた記憶の奥にさぐり当てた花火のようなほのかさをそえる。


13:00前、宇治に到着。駐車場を探してうろうろしているうちに時間がたってしまった。
700円の駐車料を払う。
今回の旅は神社仏閣を多く訪ねる旅となったが、やたらと駐車料がかかる。これがまた不思議なことに、寺院でかかるのである。神社では全く払わないですむ。

平等院は生け垣の外からのぞき込んでよしにする。

宇治もよかった。
山様も低く、空が広々とひろがり、宇治川が蕩々と流れている。平安時代から貴族の別荘が設けられたことが理解できる。川を渡る風が涼しい。平安時代からの空気感が濃厚に残っている。

「橋合戦」の説明版があり、ここでも「平家物語」の世界に接触する。
平安末期の源平の抗争は、つまるところ天皇の子孫の争いであるのだが、それゆえに滅亡すらも「無常」という華やかさをまといながらも、新しい時代を開くことになると言う不思議さがある。

新しい時代を拓いた源氏より、あっという間に潰えた平氏に対する同情的な平均的日本人の感性は、判官贔屓と言ってすますより大きな何かがある。
そして源氏の血統も、三代で消滅する。



宇治川

宇治山(と思われる・・・?)

マップへ戻る
わが庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人は言ふなり   喜撰法師

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらわれわたる瀬々の網代木   権中納言定頼

京−>宇治−>吉野、というラインを想定してみる。

ろ紙を使ったペーパークロマトグラフィーのようなグラデーションが描かれるのではないか。

喜撰法師の歌は、掛詞の重層が定家好みであろうが、「辰巳」「しか」、さらに「なり」という伝聞の助動詞が、宇治のひらけた空間によくあっている。。

定頼の歌は、朝ぼらけから川霧の切れ間に網代木が見え始める四半刻足らずの移ろいがある。

そして地紙の紋様のように宇治の地相が表れてくるのは、どうしたことだろう。


次は逢坂の関を目指して、大津市の逢坂小学校に向かったのだが、国道1号線が県境あたりで峠を越えようとしたとき、左手に石碑があった。

いったん大津に入り、Uターンして石碑に向かう。
本当にここにあったのかどうかはともかくとして、峠はそうした境を区切るのにふさわしい場所なので、14:10過ぎ、写真を撮る。

蝉丸の歌からただよってくるあわただしさは今も変わらず、「コレヤーコノー」とか「ユクモーカヘールモ」とか「シルーモシーラヌーモ」とエンジンの音を交わしながら車が行き交う。


これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関   蝉丸

名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな   三条右大臣

夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ   清少納言

峠に関が作られたのは、機能上の問題だけではないだろう。

いや、あるいは機能を「結界」という言葉で表す文化があった。

逢坂の関は今でも暗い。
車の往き来しきりな今でも、国道1号線の、切り通しになった峠は、日射しが遮られひんやりと暗い。

蝉丸の歌は対義語を並べることでどことない滑稽なリズムを生み出しているが、三条右大臣定方の歌の葛藤も、清少納言の中国故事に基づく知性も、同じように、よじれながらも続いていく空間を持っている。

いずれの歌も、這いずるようにたどり着く峠と、その先にある小さな明るさへの怖れのような感覚を持っている。


15:00、加茂別雷神社(上賀茂神社)へ。

ここでは駐車券を取る自動式駐車場なのだが、30分以内であれば無料。

手向山神社で思ったのだが、神社の建物の中には何もないのである。ご神体というのは鏡だとか石とかあるようだが、司馬遼太郎が言うように、結局は何もない清浄な空間というのが大事なのだろう。

それに対して寺院には、仏像を始め、これでもかと言うほどに何かがある。金を稼がなければならないのはこんなところに理由があるのだろうか。

考えてみれば、聖武帝の大仏建立も全国的な勧進(銭集め)から始まったのである。

神社内を流れる小川が、涼しい風を立てている。

ここでは私服姿の中年の男性が、両肘を張った正しい(?)姿勢で、祠ごとにお祈りしていた。信心とは何なんだろう?
それより、涼しい流れにむかってしゃがみ込んで携帯電話で写真を撮っていた若い女性のほうが、信心があるようにも見えた。


加茂別雷神社


風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける   従二位家隆

上賀茂神社境内を流れる小川の涼しさは、この歌をそのままとどめていた。

自分の中を流れる生き物としての血流と、それをなんとかして抽象へ位置づけようとする脳的存在との競い合いや馴れ合いを、私たちは無意識の中にもどかしく思う。

が、それがすべてを掌から解き放ったときに、自分自身であることを、暦と肌感覚のずれの中に感じる。

それはたぶん、暑い夏のさなかにゆるく使った団扇の一振りから起こる空気の揺らぎであったり、また真冬のさなか、風が静止した日なたの暖かな眩しさであったりするのだ。

そんな一瞬。


次は西京区御陵大枝山町へ。

歌の「大江山」は、酒呑童子が住む丹波の山という説もあれば、西京区のこの場所だという説もある。

道筋をたどって橋立に至るのであれば、御陵大枝山のほうがいいようにも思うのだが、16:00ころたどり着いたそこには、大きなスーパーがあり、あたりは住宅地であった。

そこを下りて沓掛ICから京都縦貫自動車道に乗り、生野神社へ向かう。

下り線はさほどでもないが、対向の上り線は帰省ラッシュの車が充満している。
時間も遅いし、場合によっては京都には戻らないとも考える。

丹波ICで高速道はとぎれ、9号線に入る。しばらく行くうちになんだか減腹して、「道の駅 瑞穂の里・さらびき」に17:00前に寄る。

月見そば、380円を頼む。そばは中の中といった感じだが、汁が美味い。するするとノドを通っていく。
味加減もいいのだが、水が良いに違いない。何も引っかかるものがない。そばの量も多く、間食どころではない。


そこからしばらく走って17:50過ぎ、生野神社に。

ここには素朴な「専用駐車場」の札があった。やはり無料。
子供とご老人。

あたりは青々とした稲田が広がる田園風景。
「生野の道の遠ければ」とあるが、やはり遠いという感じが、風景や空気感から広がってくる。

大江山の麓宮津市上宮津にも生野神社があるようだ。



生野神社の周りは田園


このあたりが大枝山(?)

生野神社

マップへ戻る
大江山いく野の道の遠ければ未だふみも見ず天の橋立   小式部内侍

「大江山」は丹波の国、酒呑童子で有名な大江山であるという解釈と、京都市の大枝の山であるという解釈がある。

伊勢大輔の「いにしへの」の歌と合わせ考えると、これは「大枝−>生野−>天橋立」という旅程を下敷きに考えたい。

たしかに西京区御陵大枝山町から福知山市三俣の生野神社までの道程は遠かった。

それゆえに、「未だ踏みも見ず」という実感が湧いてくる。

行き着く先が「天」であるのは、「Stairway To Heaven」とでも言うか、背骨が上空へと吊し上げられるような上昇感覚の快感が、この歌の作歌過程を抜きにして感じられる。


行きに見た渋滞を考えて、今夜は綾部で過ごすことにする。

18:40ホテル着。
19:30、近くのスーパーで鰹たたき、エビフライ、ポテトサラダを買って、ホテルで食事。

「まだふみも見ず」ということで、天の橋立には行かない。


走行距離;184Km
今日のBGM;「日曜喫茶店」
        「サンデーソングブック」
        Sessions acoustiques / Sylvie Vartan
        Francoise / Francoise Hardy
        Musique Saoule / Francoise Hardy


前の日へ  INDEXへ  次の日へ