大原美術館に入る。
ヴァランタン・ド・スビオレ「聖アンヌの祭日」のパンを持つ二人の老修道女が印象的である。キリストの肉体であるパンの籠を捧げ持つ、深く皺の刻まれた表情。キリストの肉体は常に新しく、キリストに生涯を捧げて老いていく現身。背景には暗い中人々が集っている。
シャルル・コッテの画が数枚掛かっている。まず「老馬」が心ひく。「セゴヴィアの夕景」の薄茜に染まった建物。なぜか軽い反発心を覚える。あるいは軽いいら立ち。何らかの自分との共通点があるのかと、考えてみる。
絵画は、何をどう描くか、という表現である。画材と画家との戯れや格闘というものは隠されている。それは絵画にとどまらずすべての表現がそうである。そのことが私に反発心やいら立ちをもたらす。カンバスや筆や絵の具、楽器や音そのもの、言葉そのもの、そういったものに私は表現者としての興味を覚える。
コッテの画が、なぜ私のそうしたものを喚起したのかわからない。飛び抜けて上手いとは言えない技巧? 定まらない視点、心の視点というものが、その画にあるのだろうか。何を描き伝えようとするのかつかめなかったからだろうか。
ミュージアム・ショップに立ち寄る。モジリアニとダリの置物がある。心ひかれたが買わなかった。 |